トイレのいつきくん

 この学校には校舎が二棟あり、それぞれが一階と二階の渡り廊下でつながっている。件のトイレはグラウンド側にあるので、わざわざ昇降口まで行かずとも中庭の渡り廊下から入ることができた。中庭から土足で校舎に入っても、他に誰もいないので咎める者はいなかった。
 少し廊下の中央にある階段からは灯りと、人の気配が降りている。ちょうど真上が職員室なのだ。教員たちが残った仕事を片づけているのだろう、模範を示すべき子どもの目がない分常よりも賑やかな声が微かに聞こえた。
 それにほっとした成宮は、始めて自分が緊張していたことに気が付いた。薄暗い廊下に人の気配はなく、リノリウムの床を滑るスニーカーの靴底は大きな音を立てていないはずなのに何故だか自分の足音を強調しているような気がした。
 知らず怯えていた自分を恥ずかしく思い、ことさら乱暴な足取りで廊下の隅へ向かう。自分は肝試しではなく用を足しにきたのだ。
 すりガラスの小窓からぼんやりと灯りが漏れている。わざと音を立てて開いた扉の中は、なんの変哲もない古びた男子トイレだった。小便器と個室が二つずつ、入口の左脇に洗面台と鏡が設置されている。
 放課後の清掃で割り振られているのだろう、毎日誰かが清掃しているようなので汚くはなかったが、それでも利用頻度の低さからおざなりなようで湿った埃っぽい空気が鼻をついた。
「ねぇ」
 個室のドアは二つとも閉まっている。もしかしたら本当に誰か入っているのかもしれないと、誰ともなしに声をかけてみた。
「誰かいるの?」
 応えはない。声の余韻が消えれば静まり返るばかりのトイレで、成宮は息を吐いた。やっぱり消し忘れか。
 さっさとションベンして帰ろ、と便器に直り、用を足してから隣の洗面台で手を洗う。思っていたよりも冷たい水に身震いして、肩にかけていたタオルで手を拭おうと顔を上げた成宮は妙な違和感を感じた。鏡の中の自分は訝しげに眉を顰めている。掃除といっても床を掃いている程度なのだろう、手入されている様子のない水垢のついた鏡は、四隅から曇りがはびこってまともに見えるのは中央付近だけだ。鏡の真ん中、眉を顰める自分の顔をようよう眺めて、それからぞっとした。鏡の右端に少しだけ写りこんでいる個室の扉が開いていた。
 さっきまでは、閉まっていたはずだ。用を足し終えるほんの数分前まで扉はぴったりと閉まっていた。でもトイレのドアなんて内側から鍵をかけない限りプラプラと動くものだし、たまたま閉じていたものが少し動いただけだきっと。そうに違いない。だって誰もいないんだから。
 成宮の左には入口のドアがある。押せば開くそれに今すぐ飛びついて外に出ればいい。だのに成宮は鏡の中で僅かに開いた扉を見ていた。「ねぇ」オカルトなんてまったく信じちゃいないけど、生きがいである野球すら満足に出来ない今の自分を変えたかった。開いた個室は気のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 誰かいるのなら返事をしてほしかった。成宮はもう随分の間、誰とも会話をしていない。
 ぎぃぃ、と耳障りな音でも聞こえるかと思ったが、鏡の中の扉は滑らかに動いていく。ゆっくりと開き、細い闇が個室のタイルを写すようになるまでじっと見つめていたが、とうとう扉が開ききっても、成宮の目の前には成宮の顔しかなく、その後ろには白い蛍光灯に照らされたタイルの壁があるだけだった。成宮はため息を吐いた。バカバカしい。どうかしている。
 引きこもり過ぎて頭がおかしくなったのかもしれないな、と鏡から目を離した成宮はそのままトイレを出ようとして、足を止めた。左側、視界の端に映った開かれた個室の中に誰かがいる。鏡を見つめていると、小さく揺れていた黒髪から額が見えて、それから瞳が現れる。
 目があった。
「こんばんは」
 個室の中、蓋を閉めた便器の上に座っている少年は、成宮が何かを考えるより先にそう言った。気楽な声だった。

       *

 幽霊は存外しっかりとした体躯をしていた。便器に座る少年を見下ろしながら尋ねる。
「お前って幽霊なの?」
「そうみたいです」
「何年生?」
「一年生」
 それは高校一年の時にこうなったということだろうか、それとも幽霊一年生という意味だろうか。てらいない答えにつっこんで聞いてみたいような気もしたが、幽霊相手といえどさすがに不躾かと思いやめた。
「なんでここにいんの」
 成宮の質問に、首を傾げて「さぁ」と言った。「あんまり気にしたことないです」
 話す姿はただの高校生だ。自分と同じ一年生だという幽霊相手にこうも易々と会話が出来るのは、彼があまりに普通の少年然としているのと、野球部のユニフォームを着ているからだった。見知らぬ相手でも親しみを感じてしまう。白を基調とした正面に稲城とローマ字で書かれたそれは、よく見ると落としきれない土汚れが所々に見える。首元と手首を覆う白いアンダーシャツも見慣れたものだ。成宮も数ヶ月前までは毎日身に着けていた。
 急に黙り込んでしまった成宮を訝しむでもなく、「いいんですか、帰らなくて」と少年が言う。
「帰りたくない」
 間髪入れずに飛びだした言葉は本音ではなく我儘だ。寮内を歩けば気遣うような視線が次々に飛んでくる。逃げるように飛び込んだ部屋にも同室の先輩はもちろんいるし、他の誰より気を遣わせてしまっているだろうことが嫌だった。それでも今、自分にできることはなんにもないのだ。
「じゃあここにいましょうよ」
 太い眉を目尻ごと下げながら、優しい声を出してくる。
「ここなら、なんにも怖いことなんてないですよ」
 顔を上げて見やった幽霊は、少し汚れた野球部のユニフォームを着て便器に座っている。外見は自分とさほど変わりないのに何故だか背筋が震えた。そうだ。こいつは人間ではないのだ。
「……いい。帰る、俺」
 引き留められたらどうしよう、と膝の上でおざなりに組まれた指を見ていた成宮だったが、少年はそうですかと頷いて「じゃあまた」と笑った。