IQ5

 寮の部屋には鍵がついている。就寝時に鍵をかけるかどうかは使用している者によるが、原田は鍵をかけない。盗まれて困るものは財布くらいだが、この三年間身内に盗人が出る様なことはなかったので、その辺はあまり気にしていなかった。
 消灯時間を過ぎて夜も更けた頃、静まり返る部屋のドアノブが動いた。控えめな音を立ててゆっくりとドアノブが回り、扉が外側に開いていく。
 慎重に開かれた扉から顔を覗かせた男は、電気の消えた室内を見てから、廊下を見渡して誰もいないことを確認すると隙間から体を滑り込ませた。
 開いた時よりも殊更慎重にドアを閉めた後、目を慣らしながら部屋を見渡す。盛り上がったベッドをじぃと見つめる男は、その目が十分使えるようになったことを確認すると足を踏み出した。足音を立てないよう忍び足で近づいて、ベッドの一歩前で流れるように膝を折る。
 膝立ちになったままベッドの縁に手をかけて何をしているのかと思えば、目蓋を閉じて寝息を立てる原田の顔をひたすら眺めていた。
 規則正しく上下に動く胸を満足気に眺めて、しばらくそうした後に体を起こし、部屋を歩いたときの十倍は気を遣いながら原田の隣に潜り込んでいく。
 眠りにつく原田が壁際に寄っているのをいいことに、半人分開けたスペースにけして細いとは言えない体をねじ込むと、布団の上に投げ出されていた原田の左腕をそっと掴んだ。
「はぁ……」
 恋人のように指を絡ませながらうっとりと息を吐く。掴んだ腕を肘で曲げて、肉厚な手の甲を自分の顔の前に持ちこんで愛おしげに指を絡めた後、曲げた肘を伸ばして腕枕にした。
 秋も半ばとはいえ、熱がりの気がある原田は寝る時に半袖を着ている。弾力のある上腕二頭筋を枕にしながら、男の視線は袖の裾に隠れたその先に夢中だった。
 ちょうど二の腕の中間あたりまでの長さを持つ袖の、波打つ隙間の向こう側から甘い香りがする。大きく息を吸い込んだ男は、恍惚とした表情を浮かべた。
 腕枕から数センチ頭を持ち上げて、そのまま腕の付け根に顔を近づけて一度小さく鼻を鳴らしてから、一層匂い立つその奥に鼻の先を突っ込んでいく。メイブルシロップのような甘い香りを嗅ぎながら、空いている左手は無意識で原田の体を撫でている。
 鼻を押し付けていた男は、一旦顔を離すと改めて布越しのそこを見て、乱れた袖に鼻を埋めようと首を伸ばした、その時に、首の真後ろを強い力で引かれた。
「なにやってんだ」
 樹、と名前を呼ばれた多田野は、襟首を引っ張られている苦しさも見せず、雅さん、とうっとり呟いた。
「すみません、起こしちゃいましたか?」
「なにやってるんだと聞いてんだ」
 襟首から手を離すと、そのまま頭の力を抜いて原田の腕を枕にした多田野が「雅さんに会いたくて」と言う。
「今何時だと思ってる」
「雅さんって寝顔も素敵ですね」
「消灯時間はとっくに過ぎたろうが」
 勝手に枕にした二の腕に頬を擦りつける男の話をまともに聞いてはいけない。
 普段は真面目で聞き分けの良い後輩は、こうなってしまうとその限りではないのだった。
「雅さんってメイブルシロップみたいな匂いがします……」
 すん、と愛おしげに鼻を鳴らしながら、多田野が見つめる先は脇だ。先程も原田が止めなければ迷わず顔を埋めていただろう。頭がおかしい。
 おめでたい頭の後輩は、呆れる原田の太腿に足を絡めてこの先まで進もうと誘っている。
「……………樹」
「はい、雅さん」
 煮詰めた砂糖のような視線を一心に受け止めながら、原田は一切の感情を捨てた声で「お前は出禁だ」と言った。