山に来たのは、訓練と、それから気分転換のためだった。
勝己は登山が好きだ。おのれ一人の力で上を目指し、ストイックに打ち込むことができる点が好ましく、街中とは異なる澄んだ空気に触れることも良い。かといって著名な山に挑むのかと言われるとそういうわけでもなく、もっぱら足を運ぶのは近所の山林であった。
適度な広さで猛獣の心配もないその山は、山菜取りやちょっとした登山を楽しむ人も多く、この辺りに住む子供たちの遊び場でもあった。
危ないからやめなさい、と大人たちから言われていても子供たちは遊びに行き、窘める大人たち本人も、かつてはそうした忠言を無視して遊んでいたのである。
人気の多い山ではあるが、それは中腹辺りまでの話だ。
この山は、それほど高さがある訳ではないものの、半ばを過ぎると急に斜度が高くなりのんびりとした足取りで上ることが辛くなってくる。
長くは続かず、幾ばくも歩けば頂上には着くが、山菜取りや遊び場としてはあまり適していないので人の姿はない。稀に登山目当てで来ることもあるが、基本的には勝己くらいのものだ。
単純な山登りだけの日もあれば、個性の調整や使えそうな技の開発に勤しむ日もあるし、どちらも楽しむ日もある。今日がそれだった。
頂上近くまで登った後、木の根や小さな崖の付近で身のこなしを考える。足場の悪い箇所を選んだのはワザとだ。散々宙を飛んでおいていざ着地の時に滑って転びましたではお話にならない。
どんな場所にでも安定した着地が出来るよう、個性を駆使して飛びまわっていた勝己は、自分以外の誰かが来るとは思ってもいなかった。ただでさえ足場の悪い所だ。子どもも近寄らないし、山菜取りなんて持っての他だ。
まったく油断していたものだから、着地の直前「かっちゃん」と不意打ちのように入ってきた声に意識を取られてしまったのである。

「だ、大丈夫!?」
ボコボコと生えた木の根を避けて出久がやってくる。
予期せぬ事態に対応できず、無様に転んでしまった自分が情けない。舌打ちをして立ち上がろうと腕に力を込めた時、ふと顔に影ができた。
「怪我してない? 大丈夫?」
目の前で屈みこんだ出久が手を伸ばしている。
(――大丈夫? 立てる?)
「……るせぇ、どけ」
差し出された手を思い切り叩いて、勝己は立ち上がった。一瞬よろけた様を見て心配そうな顔をする出久を突き飛ばし汚れた尻をはたく。
「この辺、山菜がいっぱいあるんだね。知らなかった」
聞いてもいないことを出久が喋りはじめる。勝己は無視した。水と軽食の入ったリュックを肩にかけて、山の斜面を往く。
「もっと下の方は何度か行ったこともあるんだけど、ここまで来たことなかったな」
「ついてくんなカス」
何を考えているのか、勝己の後ろを着いてくる。今すぐ失せろとかざした手の平を爆破してみせたが、出久はぴくりとも顔色を変えなかった。「お母さんがね、上の方にいっぱいあるかもって言ってたんだ」へらりと笑った出久は、背負い直すようにリュックを揺すった。
しばらくそうして顔を突き合わせていたが、まったく退く気配がない。勝己はひとつ舌打ちをして足を踏み出した。

数歩後ろを着いてくる足音と、気配。話し声は一切無視していたらそのうち止んだ。
勝己は、頂上に向けて歩き始めたことを後悔していた。あの時さっさと切り上げて、山を下りていればよかった。冷静になって見ていれば、出久が持っている袋の中に山菜が詰まっているのが分かったし、これからまた上に行くのだろうと予測も出来たはずだ。
人前での訓練に特別抵抗があるわけではない。しかし勝己は、出久の前でだけはしたくなかった。
後ろの気配は着いてはいるが、途中立ち止まったり、生えている山菜を取ったりとそれなりに忙しくしている。足を止めているその間に撒いてやろうと、勝己は足を速めて先を行くのだが、気づいたら元の距離に足音がある。走り寄って来ている風でもないのに簡単に距離を詰められているのは、きっと個性を使っているからだ。数カ月前の職場体験以降、怪我をすることなく見違えるような動きが出来るようになった出久が、勝己は疎ましくて仕方がなかった。自分の成果が得られなかった憤りもある。
クソ野郎、と呟く。それが自分に向けてなのか、出久に向けてなのかは勝己自身もよくわからなかった。

     〇

この辺りに住む者なら誰でも知っている山は、秋口の最中、人気が多くなる。ちょっとした散歩として紅葉を楽しんだり、山菜を取りに来たりと賑わう一方で、それは山の半ばまでの話だ。
半ばを過ぎたあたりから急に傾斜がきつくなり、足場も悪くなるので、軽装で歩けるこの辺りまでしか来ない者がほとんどだ。
出久が小さい時も、危ないから上までは行かないようにと言いつけられていた。なんでも出来る幼馴染も同じことを言われていたと思うのだが、彼はそれを無視して入っていくので、一緒に遊んでいた子どもたちも同じように分け入った。行かなかったのは出久だけだ。危ないというのもあるし、たとえバレなかったとしても母の言いつけを破ることに躊躇いがあった。
結果的にその判断は正解だった。小さな崖の上から飛び降りた勝己の真似をした子が骨を折ったのだ。
崖といってもほんの小さなもので、二階より少し低い程度の高さだ。ただし足場が悪い。勝己は個性を使ってなんなく着地することができたが、その子どもはうまく出来ず、着地に失敗して手足の骨が折れた。
相当痛かったのだろう。泣き叫ぶ声が中腹付近で待っていた出久の所まで届くほどだった。
それ以降、子どもだけで山に行くことは禁止された。当事者でない他所の子どもたちも、骨を折る大けがをしたとなると近寄りたくないのか、山に行く者はいなかった。言いつけを守り待っていた出久はそれほど怒られはしなかったが、勝己を含む当事者はひどく絞られた。
思えばあの日以来だ。ここに来るのは。
紅葉の始まった木々や、道中生えている山菜を取りながら、前を行く背中を見る。出久が足を止めている間にすぐ先へ行ってしまうのは昔から変わらない。一緒に遊んでいた頃だって、転ぼうがはぐれようが、勝己が後ろを振り返ることはなかった。それが寂しいと思っていたのは最初だけだ。自分はシンガリなのだから、何かあった時に自分がみんなを守るのだ。そう考えると、不思議と寂しさは消え、元気に先を行く彼らの背中を見るのが誇らしくすらあった。
殿の意味を知った時は、かっちゃん多分よく知らないで使ったんだな、と苦笑した。撤退、後退、負け戦。彼が一番嫌いな言葉のオンパレードだ。
それでも、一番大切な場所に自分を置いてくれていたということを出久は嬉しく思っていた。
出久は勝己のことが好きだけれど、勝己はそうではないらしい。そのことに気が付いたのは中学の時だ。昔のように遊ばなくなり、出久がずっとまとめ続けているヒーローノートを馬鹿にする。自分なりの分析をして、長所、短所等をまとめたそれを笑いながら見ている君だって、その中にしっかり書いてあるんだからなと、腹立たしく思ったこともある。
いつからだろう。出久は考えるが、これといって、何か悪いことをしでかした覚えはなかった。
おなじ学校、おなじクラス。中学三年目と同じだが、あの頃とは全然違う。どうしてだが、今度は勝己の方が何かしらのコンプレックスを抱えているのだった。
分からないはずがない。ずっと一緒にいたのだ。背中を見れば大体わかる、とまではいかないものの、なんとなく何を考えているのか分かるのは事実だ。出久は彼の背中ばかり見てきた。
明らかに下に見られていることは出久自身もよく分かっていた。自分を上に置きたがっている勝己の心境も分かっている。でも、そんな風に意固地にならずとも、かっちゃんの方が上にいるでしょう。
譲り受けた個性を卑下するわけではなく、根本的に、緑谷出久と爆豪勝己で優劣をつけるのであれば、間違いなく優を得るのは勝己の方だと出久は思っている。頭の良さも、戦闘センスも、他をひきつけ、まとめあげるカリスマ性も、どれも出久にはないものだ。
なのにどうして、勝己は出久に執着している。既にその手の中にある優を投げ捨て出久の持っている優を勝ち取ろうとする。そんなものはないのに、自分に不健全な執着を見せる勝己がかなしかった。
だから今日、山奥で勝己の姿を見かけて思わず声をかけてしまった。冷静になって見ていれば着地の寸前だということが分かり、話しかければ足を滑らせるかもしれないことが予想できただろうに、出久は浮かれていた。
最近はまともに会話をすることすらなくなっている。だから、今日少しでも話が出来れば、なんでもない会話でもいい、それを糸口にして、いつかまた昔のように一緒に遊んだりできる日がくるかもしれない。
今も、少しぼんやりとしている間に勝己の背中が遠くなっている。全身に力を張り巡らせて一足飛びで近づこうとした時、前を行く体がぐらりと揺れた。



あらかじめ不能の恋人たち