今日も今日とてよく学び、よく食べ、よく動いた出久は、満身創痍で電車に乗り込んだ。授業で分からない所があったので職員室まで尋ねて行った帰りにオールマイトと会い、つい話しこんでいるうちに日が暮れる時間になってしまった。夜道を怖がるわけではないが、今日はすき焼きだから早く帰ってらっしゃいねと出掛けに母が言っていたのだ。大好物ではなくとも、やはりすき焼きと聞けば気分が上がるのが男子高校生というもの。トレーニングにもなるしと駅まで走ったはいいものの、思っていたよりも疲れてしまい車両に乗り込む頃にはぐったりと肩を落とす始末であった。
下校時刻から少し外れている車内は比較的空いていた。それぞれが端や中央に寄っているのでそこかしこにぽかりと隙間がある様子は朝には絶対に見られない光景だ。僅かな空間に我先にと身をねじ込む車内戦争で、出久は大概負けている。
乗車したドアのすぐ左が空いていた。正面の座席でもよかったが、ここから出久の降りる駅までは向こう側のドアが開く。日が落ちてからの風は冷たいのでなるべく避けたい。
腰を降ろして背負っていたリュックを腹に抱えこむと途端に眠気が襲ってきた。教科書やジャージの詰め込まれたリュックはまるまると太り、顔を預けると丁度良い角度になるのだ。硬い生地に頬を預け、うつらうつらとする出久の瞼はもはや半分も開いていない。
ホームから聞こえてくる喧騒。車両に乗り込む足音。発車を告げるアナウンス。

ドアが閉まります。ご注意ください。

大袈裟な音を立ててすぐ横の扉が閉まったことまでは出久にもわかった。発車の際に座席が揺れた。シートが僅かにへこんだ。後はもう分からない。



ふと目が覚めたとき、出久の身体は左側に傾いていた。膝の上に重みはあるが、頭を預けているのは違う場所だ。ぼんやりと開いた視界に見える向かい側の窓からはお昏い街並みが現れては消えている。その中に出久は、斜めになった自分の姿とそれを支えているもう一人を見た。
「……かっちゃん?」
呟きはあまり綺麗な音にならなかった。眠っている間に乾いてしまったのだろう唇はうまく動かず、口の中で言葉が籠った。左側を向いていた勝己の顔が窓の中でちらりと動き出久を見た。と思った瞬間に反射光で窓一面が白く光り、再び映った頃には勝己の顔は左を向いていた。
線路の微かな波打ちはシートを伝わり出久の身体を小さく揺らすのでカタコトと頭が揺れるたびに勝己の左肩に当たる。勝己は何も言わない。窓に映る顔はそっぽを向いている。右に左に視線をやって、どうやらこの車両には自分たちしかいないらしいということを知った出久は、あぁ、と理解した。

出久の夢に彼が出てくるのは久しぶりだった。
昔はよく出久の夢に出てきて、怪獣と戦ったり敵を倒したり、延々と終わらない花火を楽しんだりしたものだ。最初は遊んでいたのに段々と意地悪をされるようになった夢は、日を追うごとに少なくなり、小学校を卒業する頃にはほとんど見なくなった。中学時代には一度か二度か、その程度だけ現れたが、それきり姿を見ていない。
夢の中に出てくる勝己は、稀に優しかった。たとえば出久が転んでも、鈍くさい奴だ、という顔をせず駆け寄ってきて手を差し伸べてくれる。たとえばここが分からないと教科書片手に唸っていると隣からヒントの書かれている行をペンで指し示してくれる。そういう時の勝己は出久が何をしても嫌そうな顔をせず、ありがとうと礼を言うと、笑ってすらみせるのだった。自分に意地悪をしない稀有なかっちゃんの存在を出久は喜んでいたのだが、爆豪勝己に同じことを求めているかというとそうでもない。実際に勝己からこんな対応をされたら気味が悪くて仕方ないだろう。

(かっちゃんは僕に肩を貸したりなんかしない)
ので、夢だと分かった出久は安心して目を閉じた。夢の中で眠るというのも奇妙な話だが、今更動き回る気にもなれない。暖房か、窓から射し込む夕日の所為か、車内の温度はとても良い塩梅である。つまりは眠かった。
正体が分かり、気を遣うことなく体重をかけた出久は、一つの文句も言わない優しいかっちゃんに凭れながら「あのね」と言った。
「僕ねぇ、かっちゃんと仲良くなりたいんだ」
ひとり言だった。久し振りに『優しいかっちゃん』に会ったので、甘えてみたくなったのだ。
「たぶん昔は仲が良かったと思うんだけど。一緒に遊んでたしさ……遊んでたのかな? 僕が勝手にくっついてただけなのかな」
わかんないけど、と小さく笑いながら出久は呟いた。声は小さいし、口もうまく回らないのでぽそぽそと言葉が聞き取りずらい。返事のひとつも返ってこないが、それでいいのだった。
「悩み相談みたい」
あんまりうまくない冗談にも、預けた肩はぴくりとも動かずただそこに有って出久の身体を支えている。彼がひとことも喋らないので、出久は増々安心した。
優しいかっちゃんは口を利かない。昔から優しいし、笑いもするが、その口はまったく働かない。優しさの代償かなにかだと出久は思っている。自分の夢なのだからもっと好き勝手できればいいのにと思わないでもないが、でもそんなのかっちゃんじゃないしな、とも思うのだ。
自分は彼に何を求めているのだろうか。
預けた肩から伝わる体温がとくとくと出久に染みわたり、窓から射し込む夕日も相まってとても穏やかな気分だった。こんな気分は久し振りだ。楽しいことはいくらでもあったが、静かに、穏やかに身を預けることができる安心感はなかったように思う。夢にまでみた高校生活は良い意味で緊張の連続なので。
薄らと開いた眼差しを窓に向けながら、出久はもごもごと口を動かした。
「好きだよ」
さて彼はどんな顔をするだろうかと見ていたのだが、丁度傾いた西日が輝きを集めて窓一面が白く光った。数秒経って元通りになった窓に映るのはお昏い街並みと、変わらずそっぽを向いている彼と、ぼんやりした顔で肩を預ける自分だけだ。
果たして目的の表情を見ることはできなかったが、もはやどうでもよかった。暖房と車内を照らす西日とで体中がぬるま湯につかっているようだ。自分で体を支えなくとも留まっていられることが心地よかった。とても良い気分である。何事も自分を不安に陥れない、約束された安寧がここにある。
彼に求めているのはこういうものかもしれない。
かっちゃん、と名前を呼ぶと、窓の中で視線が動いた。目が合った彼の表情は特別優しいものではなかったが、隣にいるだけで充分だった。肩を預ける存在がいる今のなんと安らかなことか。
「また来てね」
随分と久し振りに会ったので、きっとまた暫くの間、優しいかっちゃんは夢に現れないのではと思った出久はそうお願いしたのだが、口の利けない彼から返事が来るはずもなかった。










ぐったりと重くなった身体を支えながら、爆豪勝己は向かいの窓に広がるお昏い街並みを眺めていた。傾いた西日は先程までの眩しさを失くし、なけなしの地平線を燃やすばかりである。きっと最寄りの駅に着く頃には沈み切っているだろう。
到着を知らせるアナウンスが流れると車内は浮ついた空気になるのが常だが、今この車両にいるのは勝己たちの他には車両の端に一人座っているだけだった。その人も目的地は先のようで居住まいを整える気配はない。
電車がゆっくりと速度を落とし、駅のホームに滑り込んでいくと、立ち並ぶ人の列が見えてきた。あと十数秒もしないうちに彼らが車両になだれ込んでくるだろう。勝己は左腕を伸ばし、出久の襟首を掴んで右側に寄せた。手すりに凭れかかりすよすよと眠り続ける顔を見ながら右肩をコキリと回す。
立ち上がり、出久の前に立った勝己は電車が止まるのを待った。数秒の後にブレーキが完全に止まり、その反動で出久の身体が左に傾いだので頭を支えてやった。
「二度と来ねぇよ」
離れ際、一度だけ髪を撫でてから勝己は背を向けた。ドアの向こうに並ぶ人々をすり抜けてホームに立ち、流れに逆らう様に足を進めていく。
赤く染まる雲を眺めながら発車を見届けた勝己は、心底面倒臭そうに、次の電車に乗り込むべく黄色い線に並んだ。




たやすくは抱き合うものか鉢植えの蔦を愛してたかが百年
(2016.1.1 / 松野志保)