飛行機を乗り継ぎ電車を乗り換え道を歩く。ユーリの足取りは迷いない。どの会場よりも多く足を運んでいるこの場所は第二のホームの様なものだった。従業員も馴染みの客も、ここの家主でさえもユーリの姿を見ると久しぶりと笑って手をあげる。世界的なフィギュアスケーターの来日ではなく、昔から面倒を見ていた近所の子が帰ってきたと、そんな顔で迎えるのでユーリも勝手知ったる様子で入りながら「ただいま」と言う。練習と実践のおかげで四文字の日本語はとても滑らかだ。
 荷物を置いて食堂に向かうと、隅の方に黒髪が揺れていた。頬杖をついてテレビを見ているようだった。背後から近づき、すぐ真後ろに立っても気づかないので、面白くないユーリは軽く背中を蹴った。間抜けた声を上げた男は突然現れたユーリを振り返り、それから手元を見てあーあーと窘めるような声を漏らした。
「ユリオのせいでこぼれちゃった」
「どんくせーお前が悪い」
 空になったお猪口が恨めし気にユーリを見ている。
 濡れたジャージを台拭きでぬぐいながら「おかえり」と勇利が言った。

     ○

「ヴィクトルは?」
「さぁ。ラーメン食べに行くって出てったよ」
 数時間前に出て行ったらしい男のSNSを試しに確認すると、生ビールのジョッキが現れた。数分前の更新を勇利に見せると予想通りだと流されて終わった。
「ユリオ、お腹空いてない? なんか食べる?」
「カツ丼」
「好きだねぇほんと」
「ミソシルもつけろよな。あっ、あとオシンコも!」
「はいはい」
 よっこらしょ、と立ち上がった勇利が厨房に声をかけて戻ると、ユーリが不思議そうな顔で今の日本語はどういう意味だと訊いてくる。立ち上がる時の掛け声みたいなものだと説明すると増々不思議そうな顔をしていたが、詳しく説明するのが面倒なので勇利はわざと黙っていた。
 ついでに持ってきたラムネとグラスを置いてやると、飛びつくように身を乗り出す。ヨッコラショの不思議はユーリの頭から飛んでいったらしい。
 ビー玉を落とさないと飲めない瓶ラムネは、数年前から彼のお気に入りである。落とす過程もそうだが、飲むためにビー玉をうまく扱わなければならない所が面白いのだという。うきうきと包装を破りビー玉を落とさんとする様子を見守りながら、勇利は胡瓜の漬物を指でつまんだ。
 

 ポン。と小気味いい音を立てたユーリは、くぼみにビー玉を嵌めるように瓶を傾けた。わざわざ用意してもらったが、グラスに注ぐよりこうして直に飲んだ方がうまいのだ。ひとくち、ふたくちと喉を潤す炭酸水に一息ついたユーリは、向かいで徳利を傾ける手をなんとなしに眺めた。
 勇利は意外と指が長い。人種も関係しているのかは知らないが、自分たちよりは細いもののしっかりと骨ばった男らしい指である。先ほどユーリが零した酒は再び並々とお猪口に注がれて、徳利を手放した指がそちらに向かう。二本の指でつまんだ器を支えるため添えられた中指をじぃと見ていると勇利はくすりと笑った。
「あげないよ?」
「いらねぇし。つーか、飲みたきゃ勝手に飲むからいい」
「だぁめ。まだ早い」
 出た、『まだ早い』。ユーリは顔を顰めた。
「早くねーよ」
「いいや、早いね」
「もう成人だぞ。日本でもな」
「それでも、」まだ早いよ。勇利はそう呟くと、へらりと笑ってお猪口を舐めた。ちろりと見えた舌は赤い。この男は酔いが回ると行儀が悪くなるのだ。それに巻き込まれてあまりよろしくない顛末となった記憶もあるユーリは、舌打ちをして胡瓜に手を伸ばした。最後の一切れであるそれにアッと声が上がる。
「僕の胡瓜……」
「ケチケチすんな、一個くらい」
「あー……」
 未練がましく皿に残った汁を指につける姿は本当に行儀が悪い。相当酔っているのでは? と身構える青年に構うことなく、人差し指をぺろりと舐めた勇利は再びお猪口を持ち上げると今度はそのまま飲み干した。
 そして一言。
「ユリオ、金メダルおめでとう」
 あまりに唐突だったので、ユーリは数秒固まってしまった。金メダルおめでとう。どれだ?「ワールド、こないだの」先日行われた世界選手権は日本・大阪での開催だった。ミナコや真利、優子たちも応援に駆け付けたその場所に、もちろん勇利も居たし、祝いの言葉も告げた。
 そうして、せっかく日本に来たのだからとロシアに戻る前に長谷津に寄ることにしたのだ。遠回りになるが構いやしないと、コーチであるヴィクトルなどは取材やインタビュー等々で一日埋まっているユーリを置いて、一足先に勇利たちと一緒に帰る始末だった。なんて野郎だ。普通生徒を置いてくか? しかしユーリとしても、メディア対応はヴィクトルよりヤコフが付いている方が楽なので薄情な男を止めることはしなかった。当然ヤコフは怒鳴り散らしたが、それをまともに聴くような生徒はギオルギーくらいなものである。
 ほんの二三日も経って居ないが、ユーリの中では既に終わった大会だ。今更改めて言われるほど、悲願のメダルというわけでもない。
 話が飛ぶのは酔っぱらいの妙である。
 ユーリは面倒だという表情を隠さずに向かいの男を見た。
「ありがとよ」
 一応、礼を返す。以前酔った勇利の言葉を無視し続けていたら大層な目にあったのだ。
 頬杖をついた勇利は、返答を聞いてにっこり笑った。もう片方の手はお猪口から離れて徳利を掴む。とくとく、と耳触りの良い音がユーリの耳を打つ。こぼれてしまう。その瞬間、注いでいた酒は止まった。薄らと盛り上がった表面からなんとなく目が離せないでいるユーリに、危なげない手つきでお猪口を持ち上げた勇利は言った。
「僕は死んじゃったから、もう二度と金メダルをとれない」
「……死んでねーだろ」
 酔っぱらいの戯言だ。ユーリはそう思っている。しかし冗談と笑い飛ばすには、勇利の声は静かすぎるのだ。
「僕もヴィクトルも、誰もかれも、競技者としての僕らは一度死んで、そうして甦った身体が生きてる。いろんな形で氷に触れたり、触れなかったりして。」
 手にした酒を飲み干すでもなく、揺らぐ水面を眺めながら勇利は続けた。
「僕ね、日本酒ほとんど飲まなかったんだ。嫌いってわけじゃなくて、なんていうか、あぁ酔うのが早いっていうのもあるけど……そうじゃなくてね、なんか神聖な感じがして。御神酒とかさ」
 おみき。訝しげなユーリに、神様に供えるお酒、と勇利が教える。御神酒には日本酒を使うのだ。
「ミナコ先生に付き合わされて飲んだこともあるけど、やっぱりまだ早いなって。まだ、生きてたから、僕は。」
 頬杖をつきながら、心なしか楽しそうに話す勇利は先ほどから訳の分からぬことばかり口にしている。一体どうしたというのか。こんな酔い方を見るのは初めてだったので、ユーリはどうすればいいのかわからなかった。ここにもう一人の、彼曰く『死んだ』男でもいればきっとこんな風にはなっていないだろうに、あの野郎は呑気にラーメンなんぞを食っている。今ゆ〜とぴあかつきの食堂に居るのは同じ名を持つ二人の男だけだった。
「はい、お待ちどぉ」
 ユーリの後ろから盆に載ったカツ丼が現れる。お味噌汁にお新香もついた定食を置いた真利は、ゆっくりしていきなねと笑って厨房に戻った。
 ほぅと息を吐いて、それからユーリは、自分が緊張していたことに気付いた。何をガラでもない、たかだか酔っぱらいの言葉に気を張り詰めていたなんて。その酔っぱらいはにこにこと笑いながらどうぞ召し上がれ、などと言っている。
 あぁ馬鹿馬鹿しい。
 ため息を吐いたユーリが箸を持ち、味噌汁の椀を持ち上げた時であった。

「ユーリ」

 勝生勇利がユーリ・プリセツキーをそう呼ぶのは、果たして何年振りだろうか。真利が名づけた渾名がとてもよく馴染んでいたので、ほんの一瞬だが、ユーリはそれが自分のことだと分からなかった。
「君が死んだら、一緒にお酒を飲もうよ」
 眺めていたお猪口をそっと口元に寄せた男が続ける。
「でもまだまだ死なないで、僕らにうんとたくさん、金メダルを見せてね。」
 持ち上げた椀から漂う湯気がユーリの視界をどこか霞がかったものにしている。
 約束ね。
 なんて、自分勝手なことばかり言う唇を濡らした酒はわずかに水位を落とし、次の口づけを待っていた。




きみもいつかはしぬんだよってうれしそう冷酒酌みかわしつつおとなは
(20170104/佐藤弓生)