「俺は稲実に行くよ」と赤松が聞かされたのは、多田野が中学三年、赤松が中学二年のある冬のことだった。
 三年生の多くはすでにどこの高校へ行くか話が出ていて、早い者では去年のうちから決めていることもあった。そんな中で、多田野だけはどこに行くのか話さず、聞かれても曖昧に答えるだけだった。進学先の話が出ないというのは、まだ決めていないか、決める必要がないかだ。高校生活を野球に捧げないならば決める基準が異なるので、この場で話が出るはずもない。
 しかし誰も、多田野が野球をやめるだなんて思っていなかった。赤松だってそうだ。南沢シニアの正捕手は単純にどこへ進むか決めかねているだけだろうと。
 二人は帰り道が同じなのでよく一緒に帰っていた。コンビニがあるので、お小遣いに余裕のある時は大体買い食いをして帰った。
 その日はとても寒くて、いつも買い食いしている肉まんでは到底足りないからおでんを食べようという話になって、いつものコンビニに寄った。はんぺん、大根、たまごに餅巾着。二つずつ好きな具を選んで近くの公園で食べた。その公園のベンチで、はんぺんを食べながらどこの高校へ行くのか尋ねた赤松に、同じように大根を食べながら多田野は言ったのだった。
 正直なところ、多田野が稲城実業の名前をあげるだろうことは予想していた。激戦区と呼ばれる西東京地区には三大強豪校がある。青道は最近捕手層が厚いと聞くし、市大三校は安定した実力と監督の喋り方が独特で面白いと噂だ。
 打算的な考え方をするならば、きっと多田野は青道に行かない。そうして残った二校ならば、稲実に行くだろうと赤松は思っていた。勝手な想像だ。実際、多田野は稲実に行くと言っけれどもその真意までは分からなかった。そこまで突っ込んでみようかしらと思ったが、熱すぎる大根と格闘している多田野を見ると、なんとなくその気が失せた。
「熱いですよね。俺もはんぺんめっちゃ熱くて」
 大きく口を動かしながら頷く多田野に笑って、残りのはんぺんを食べる。最初はかぶりついて食べようと思ったが、あまりの熱さに箸で割ったのだ。コンビニのおでんでここまで熱いのは初めてだ。温いよりは嬉しいが熱すぎるのも困りものだと、十分に冷ましたそれを口に運んだ。多田野はまだ口を動かしている。
 それぞれひとつ目の具を食べ終わり、赤松が餅巾着に、多田野がたまごに箸を伸ばした時、冷たい風が吹いた。ベンチに身を寄せ合う二人を撫でるようにして去った風に揃って首を竦める。
「寒い」
「ですね」
 早く温まろうと再びたまごに手を伸ばした多田野だったが、赤松が巾着を掴んで口に運び、とうとう食べ終わる頃までつるりと光る球体を掴めないでいた。諦めたのか箸で突き刺そうと試みるが、たまごはひらりと身を躱す。
 最初は眺めていた赤松も段々かわいそうになってきて「俺、割りましょうか」と思わず言ってしまった。多田野は疲れた面持ちで頷くと箸を手渡した。それから三秒もしないうちに、赤松の手によって剥き身の球体は半分に割れたのだった。
「俺なんて全然割れなかったのに……」
 五秒とかからず箸を返してきた赤松に呟くと、そういうときもありますって、と何のてらいもなく笑われたので、多田野の細やかな嫉妬心などどこかへ消し飛んでしまった。赤松はそういう男だった。
 半分に割られたたまごを口に運んだ多田野は、続けてもう片方を掴むと赤松の前に持っていった。不思議そうな顔をする後輩の唇に白身を押し当てると、察したのか、目で笑いながら口を開けた。

 汁まで飲み干した空の容器を捨てると、二人は公園を出た。体はすっかり温まり、時折風が吹いても首を竦めることは無い。ぎっしりと中身の詰まったボストンバッグに手を置きながら他愛のない話をして、分かれ道に着くとまた明日とそれぞれの帰路を行く。ほぼ毎日のように繰り返していることだ。なんの変わりもない。目の前にその道が見えたので、赤松はいつものように会話を切り上げ、お疲れさまでしたと言う準備をしていた。何度も繰り返しているので、無意識で口から言葉が出てくるのだ。
 じゃあセンパイ、お疲れさまでした。と言って、多田野もお疲れと返して、それで終わる。いつもだったら。けれど分かれ道に着いて、赤松より早く多田野は口を開いた。
「晋二も稲実においでよ」
 お疲れさま、と言うのとなにひとつ変わらない顔で微笑んでいる多田野は、いつもと違うことを言われて固まっている赤松に今度こそ「お疲れさま。じゃあね」とだけ言い残すと、そのまま去ってしまった。
 振り返ることなく遠ざかっていく背中を眺めていた赤松は、彼が角を曲がり視界から消えた後、別れの挨拶を言いそびれたことを思い出した。



 中学を卒業して、高校生になったのがつい最近の事のように思う。気が付いたら夏の予選が始まっていた。満足に体の動かせなかった去年は半年ですらあんなにも長く感じられたのに、寮に入り部活に励んでいる間にもう三ヶ月以上経っている。
 名高い強豪校なのだから相当な練習なんだろうと予想はしていたものの、遥かに上回る練習量と密度についていくのが精一杯で、余計な事を考える暇はなかった。膝に手を当てて息をする一年生の隣で、上級生は立ち止まることなく練習に身を費やしている。寮に帰れば自主練をして化物じみた量のメシを食らう。それから娯楽に勤しむ余裕まであるのだから恐ろしかった。
 ある日、赤松は目覚ましの時間をかけ間違えた。寝直そうにもなんとなくそんな気になれず、ぼんやりとしたまま頭のまま上着を羽織って外に出た。
 地平線の遥か遠くが薄明るく光る暁に身を任せ、肌寒い風に撫でられながら眺めるグラウンドになにかが見えた。黒い影のようなそれは一定の速度で進んでいる。
 誰かが走っているのだ、と気が付いて、さてそれは誰だと考え始めたちょうどその頃、ぐるりとフェンスを回って誰かがこちらに近づいてきた。太陽が昇り、薄明るい光が空を照らしていく中で、その光を纏うように向かってくる。向かってくるというのには語弊があって、単に周回しているだけだ。たまたまこの時こちらに向かってくるというだけのキラキラと光っているものが髪の毛だと気付いたときに、赤松はその正体を知った。
 部活での一斉ランニングよりも早いスピードで走る成宮は、赤松の方をちらりと見て、それきり気をやることなく走っていった。赤松の立っている場所からは距離があるので、成宮が赤松と認識しているかはわからない。赤松だってちゃんと顔が見えているわけではなく、朝焼けに光る金髪でそれと知っただけだ。
「晋二?」
 思わず飛びあがりそうになった。眠気もどこへやら、振り向くとジャージ姿の多田野が立っている。
「お……はようございます」
「おはよ。どうした? こんな時間に珍しいな」
「なんか起きちゃって」
 それが自分の過失による不本意なものだとはつゆ知らず、多田野はふぅんと頷いて赤松の後ろを見やった。
「あー、もう。クールダウンしてくださいって言ったのに……」
 普通に走っちゃってるよ、と呟く多田野の腕にはペットボトルが二本抱えられていた。よくよく見れば顔が火照っている。
 センパイも、と赤松が尋ねる前に多田野は小走りでグラウンドに近づくと、鳴さん! と声を張り上げた。いつもより少し低い声は静まり返ったグラウンドによく響いた。トラックを半周して一番遠い所にいる成宮は、答えるようにブンブンと片手を振り回した。
 急に速度を落とした成宮はおそらくクールダウンに入ったのだろう。ゆっくりとこちらに近づいてくる。今度は通り過ぎずここまで来るはずだ。斜め前に立つ多田野は目を細めて彼を待っている。すっかり顔を出した太陽が朝を呼んで眩しかった。
 南中に浮かんでいる時よりも幾分和らかに感じるのは暑さがないだけで、目を焼く閃光は朝だろうが昼だろうが何も変わりはない。それを背負ってやってくる男を多田野は待っている。朝日に空かされた耳朶の、透けた血色の輪郭に生えている産毛を見て、赤松は急に恐ろしくなった。
 この人は誰だ。
「センパイ、俺、先に戻ります」
 うん、という声が聞こえたような聞こえないような、つまりロクに返事も聞かないまま赤松は踵を返した。寮へ走りながら、あれは誰だろうと考える。多田野樹その人であるのに、ほんの一瞬まるで知らないだれかに見えた。
 稲城実業高校野球部のエースは成宮だ。唯一無二のその球を受けるのは正捕手である多田野だ。ここにいる多田野はもう南沢シニアの多田野樹ではなく、赤松だけの多田野ではない。
 多田野のあんな顔は見たことがなかった。あんな風に、焦がれ追い求める様な憧憬と僅かな焦燥なんてものを、赤松は多田野の中に見たことがなかった。
 赤松が成長痛に苦しみ、試合に出られず涙を流したことを多田野が知らないように、赤松も多田野がこの学校で過ごした一年間を知らない。関東ナンバーワンと呼ばれる男の放つ、渾身の一球を受け止めるに値する人間になるために多田野がどれほどの努力をしたのか知る由もない。
 門をくぐり、素振りをするときに使う小さな裏庭で赤松は足を止めた。心臓が求めるまま何度も大きく息を吸って、吐いて、あんまり苦しいので少しだけ泣いた。

 一番になりたいといつも思っている。投手である以上求めるのはエースナンバーのみだ。今年のそれも、去年から変わらず成宮のものだった。
 紙コップに水を用意しながら、赤松は目の前のダイヤモンドを見た。正面を見据えてミットを構えている多田野から視線を右に移せばそのまま成宮に繋がる。一塁側のベンチから見える横顔は美しい。元々整った顔立ちをしている人だけれど、造形ではなく、もっと別のものが彼を美しく、強く見せていることを赤松は分かっていた。
 世界で一番緊張して、興奮して、快感を感じるのは今まさに成宮が立っている場所だ。この甲子園球場で、何千何万という人の目に見下ろされながら、目の前のあの人だけを見据えて投げる球はどんなに気持ちのよいものだろう。
 赤松は多田野のエースになりたかった。誰にも秘密にしていた話を自分だけに教えて、お前も来いと言ってくれた、大好きな先輩の一番になりたい。
 最後のアウトを取って成宮たちが戻ってくる。用意していた水を手早く渡し、空のコップを回収している間に、監督の言葉を聞いた先頭打者がベースに向かった。
 防具を外し、ネクストサークルへ歩きだそうとした多田野の尻に成宮が膝蹴りを食らわせる。文句を言う多田野にケラケラ笑いながら成宮が何事かを話す。ベンチの奥にいた赤松には会話の内容なんて少しも聞き取れなかったけれど、安心しきった多田野の顔はよく見えてしまった。
 この学校に来てからというもの、赤松はもう何度彼の知らない顔を見たか分からない。
 センパイのことはよく分かっていたつもりだけども、実のところ俺は何にも知らないんじゃないかと、最近ではそんな考えが頭をよぎるのだった。


呪いにかけられて