不良行為少年

 一時限目の授業が終わった後、休み時間の間にやってきた出久はこそこそと隠れるようにして席に着いた。各々仲の良い友人らと過ごしているクラスメイトたちは気づいていない。友人と呼べるような相手がいないことをこの時ほど僥倖に感じたことは無かった。
 リュックから教科書やノートを出しつつ、素早く視線を巡らせる。二列挟んで斜め前の席には勝己がおり、周りにはいつものメンバーがたむろしていた。

 あの後、出久がベソをかいている間に勝己はいなくなってしまった。冷静になって顔を上げた時には既に姿はなく、コンクリートの上には出久ひとりが座り込んでいた。通学途中であろう女子学生に自転車で通り過ぎざま怪訝な顔を向けられて、呆けていた出久もやっと冷静になった。慌てて股間を隠すように座りなおしたが、その頃にはもう自転車は遠く先を走っていた。
 早く学校に行かなければ。
 のろのろ立ち上がった出久は、一歩踏み出して、止まった。さらに一歩踏み出すと、ぬめった感触が殊更に感じられて不快だった。中途半端に足を踏み出したまま立ち尽くしていた出久は、大きな大きなため息をついて歩き始めた。
 幸運なことに、家からそう離れた場所ではなかったので誰にも会うことなく帰ることができた。忘れ物? と尋ねる母に、うんそう忘れ物、と早口で返しながら部屋に戻った出久は、急いで着替えると再び家を出た。下着は部屋に隠してある。まさかそのまま洗濯に出すわけにもいかないが、洗っている時間もなかった。本棚の上に放り投げてきたのでたぶん見つからないだろう。ベランダで洗濯物を干している母に二度目のいってきますを言いながら出久は家を出た。
 このまま行けば一時限目の授業中に学校に着くが、授業の途中で教室に入るのはどうしても避けたかった。なぜ遅れたのか勝己は知っている。まさか誰に言いふらすこともないとは思うが、遅れて入った時に教室中の視線が一心に集まるというのは単純に嫌だ。目立ちたくない。
 学校に着いた出久はその足で保健室に向かった。同じ階にあるトイレに荷物を隠し、授業中に具合が悪くなったと伝えると、保険医は快く受け入れてくれた。罪悪感でいっぱいになりながら出久はベッドを借りた。
横になって息を吸うと、固く乾いたシーツにこびりついた消毒液の匂いが鼻腔から入り込んでくる。病的なほど潔癖を伝えてくるその匂いに、踏みつけられた箇所が少し疼いた。
保健室から教室へ向かう前に、職員室に寄って担任に遅刻の件を話してきた。通学中に具合が悪くなった、という体で保険医に話した内容とかねがね同じことを伝えると、心配そうな顔をした担任は、また具合が悪くなるようなら早退してもいいと言ってくれた。罪悪感でいっぱいになりながら出久は頷いた。
 
 予鈴が鳴り、方々に散っていた生徒たちが席に着く。戻ってきた前の席のクラスメイトが、椅子を引く時に出久を見てアレッという顔をした。
「緑谷さっきいなかったよな?」
「ちょ、ちょっと具合悪くて……」
 担任に話した内容をそっくりそのまま繰り返すと、大丈夫か? と労わる言葉が返ってきて、何度目か知れない罪悪感を胸いっぱいに感じながら出久は大丈夫だと言葉を返した。
 会話はそれで終わり、席に着くクラスメイトの背中を眺めた後、なんとなく視線を向けた勝己とまさか目が合うとは誰が思おうか。思わず首を逸らし、机に顔を伏せながら右手で頭を覆う様は大袈裟すぎたかもしれない。怖くて前が見れない。
 数分もしない内に教師がやってきて顔を上げた出久はおそるおそる勝己を見たが、既に背中を向けていた。

     〇

 放課後である。
 何か言われるかも、と休み時間のたびに身構えていたのだが、勝己は何も言ってこなかった。昼が過ぎ、午後の授業を終えて、あっけなく迎えた放課後の教室で出久は帰り支度をしていた。大抵は早々に部活動や帰路についていたが、何人かの生徒はひとかたまりになって雑談をしていた。
勝己の姿はない。彼は終礼が終わってすぐに教室を出て行った。いつもなら出久もさっさと帰ってヒーローニュースのまとめをするのだが、勝己と帰り道ではち合わないように今日はこうして留まっている。
 そろそろいいかな、と出久が立ち上がったその時であった。
 ガラガラと少々大きな音を立てて教室のドアが開いた。昼間であればさほど気にならない程度だが、放課後の人が少ない教室にはその音がやけに響いた。
 おしゃべりもぴたりと止み、全員が注目するドアをくぐって入ってきたのは勝己だった。幾分機嫌の悪そうな顔をしているのを見て、緊張していた空気が溶けた。短気な彼が苛立ちまかせにドアを開け閉めするのは初めてではなかったからだ。
 ドアを開け放したまま足音荒く入ってきた勝己は、机の中から教科書とノートを取り出すと雑な手つきで鞄にしまう。忘れ物をしたようだった。
 その様子をなんとはなしに眺めながら、今から帰るのであればもう少し待っていた方がいいか、しかし早くノートにまとめたいし遠回りになるが迂回して帰るか……と考えていた。まさかここで目が合うとは思ってもみなかったので、鞄を肩にかけた勝己がこちらを見たとき、出久の喉から引き攣りの様な声が漏れた。
 数秒程だろうか。不機嫌な顔のまま出久を見た勝己は、唐突に視線を外すと、現れたとき同様乱暴な足取りで教室を出て行った。開くときよりは大人しいが、それでも少々雑に閉められたドアの音に出久は思わず肩を震わせた。

 遠回りをして帰った出久が帰宅早々したことは、ヒーローニュースをまとめることでも宿題をすることでもなく、朝放置した下着を洗うことだった。
 出久より少し背の高い本棚の上に放り投げた下着を、椅子にのぼって取るときの居た堪れなさといったらない。
 部屋着に着替えて、他の洗濯物と一緒に洗面所へ向かった出久は、母が夕食の準備で台所にこもっていることを確認してからこっそり下着を洗った。脱いだ直後はぬめりを帯びていた布地は、一日経って乾いていた。
なるべく水音を立てないように洗っているので、どうしても時間がかかる。そういえば精通した時もこんな風に下着を洗ったなぁと余計なことまで思い出して、洗う手つきが強まった。
精通後、自慰をしたのは一度だけだ。
数カ月前、勝己とその友人らがどこから入手したのかアダルト雑誌を持ってきて見ているところに偶然出久が通りかかった。何を見ているのか知った出久が茹でタコのように顔を赤くするものだから、面白がった彼らが無理やり見せてきた。
もはや着衣の意味を成していない面積の少ない水着を来た女性があられもないポーズを取っているページを見て、どうにかなりそうなほど真っ赤になった出久は、勝己が自分を捕まえようとしたのですぐさま走って逃げた。きっと捕まっていたらもっと卑猥なものを見せられていたに違いない。
 見せられたものがどうしても頭から消えず、その夜初めて自慰をしたのだった。
 気持ちのよいのは確かだが、初めのネタが強烈すぎてそれきり何もしていなかった。もしかしたらそれがいけなかったのかもしれないと出久は考える。でなければ踏まれただけで射精するなどありえない。
 ローファーの靴底はスラックス越しにもしっかりと硬さを感じられた。ゆっくりと力を籠められて、腹と靴底の間で圧迫されるのは初めは痛いだけだったけれど、段々と妙な感覚も生まれてきた。いっそ一思いに踏みつけてくれればよかったものを、何を考えていたのか知らないが勝己は焦らすように力を込めてきたので、一度妙な気分になってしまったらもう駄目だった。
 じくりとした疼きを覚えて出久は頭を振った。どうかしている、こんなの。
 時間をかけて洗った下着はすっかり綺麗になったので、よく絞ってから洗濯機に放り込んだ。上から自分の洗濯物を入れる。明らかに手洗いした形跡のある下着がひとつだけあれば抜けたところのある母といえど気づかないわけがない。洗濯機に入れておけばそのまま洗いにかけるだろう。
 ついでに風呂掃除もしよう、と出久は浴室に入った。終わった頃には夕食も出来ているだろう。

 夕食を食べて、ヒーローニュースをまとめて、宿題もした。寝るには少し早い時間だったので、布団にもぐりながらちょっとだけオールマイトの動画を見ようと携帯をいじっていたら、気づいた頃には日付が変わる直前だった。
 キリのいいところで動画を閉じた出久は、アラームをセットして携帯を枕元に置いた。部屋の電気は消してある。寝返りを打って枕の具合の良い所を見つけてから目を閉じた。
 瞼は降ろしても目は冴えているので、頭の中では先程まで見ていた動画よろしくオールマイトが活躍していた。あの人のようになりたい。かっこいいヒーローになりたい、と考えていたら、どこからともなく勝己が現れた。個性を使って颯爽と空から現れた勝己は、こちらにやってくると、出久に向けてこう言った。
「お前には無理だ。無個性のデクが、ヒーローなんかなれっこねえだろ」
 そんなことない、と出久は言い返した。
「個性がないとヒーローになれないなんて決まりはないし、やってみなくちゃわかんないだろ」
「個性のないヒーローがいるか?」
 言われて、出久は言葉に詰まった。九冊と十数ページ分のヒーローノートに無個性のヒーローはいない。
 黙り込んでしまった出久に、ほら見ろ、と勝己が笑った。
「それに、」
 勝己の足が持ち上げる。薄汚れたローファーの靴底が見える。
「デクはちんこ踏まれてイッちまうような変態だもんな」
 ぎゅう、と踏まれて出久の口から声が出た。自分でも聞いたことのないような声だった。
 それまでテレビを見ているようだった画面は、いつの間にか自分の姿も映していた。地べたに座り込んだ自分の股間を勝己が踏みつけている様が見える。
勝己が靴を動かす度に、出久の口から声があがる。二人を横から移していた画面がずれて、勝己の後ろ側に回ろうとしていた。
 吊り上った勝己の口元が見えなくなった。後頭部が映り、その向こう側に座り込んでいる自分の姿が見えたが、全体がぼんやりしている。ピントが合っていないのだ。
「すっげぇ顔」
 勝己の声と共に輪郭がはっきりしていく。
 出久は目を開けた。
 夜の光で灰色になった壁紙を見る。ここは自分の部屋だ。ベッドの中。かっちゃんはいない。
 心臓がバクバクと音を立てているので、落ち着け、と念じながら深呼吸した出久は、寝返りを打とうとして固まった。
 そっと布団を持ち上げると、想像通りのものがそこにはある。
「なんなんだよもう」
 かっちゃんのバカ野郎。出久は呟いた。