「お前俺のこと好きなの?」今思えばそれは別にいつもの鳴さんのからかい文句であったので、俺もいつものようになに言ってるんですか! とでも返しておけばよかったのだ間違ってもずっと昔の幼い頃に好奇心から行った万引きを今になって暴かれた者のような顔をするべきではなかった。その言葉が耳の穴から脳まで伝わり意味を理解した瞬間俺の心臓は破裂した。バクン、と、ど真ん中ストレートを受けたミットのように重い音を立てて一度破裂したそれはすぐに再生して今度は驚くべき速さで鼓動を打った。その音の大きさたるやすぐ隣で和太鼓の演奏が行われているのではないかと思うほど。うるさすぎて耳鳴りがしてもうわけがわからなかった。その時部室には他の誰もいなかった。練習はとっくに終わっていた。残って自主練をしていた人たちも皆帰ってしまったので俺たちが最後だった。誰かが居ればきっとまた違った結果になったに違いない。また鳴が樹のこといじめてるよ。誰かがそう言ってくれれば俺もすぐに気を取り直してなに言ってるんですか! と言えたのに部室には誰もいなかったので。
脂汗が出た。靴紐を結び直していた所だった俺は三歩分前に立っている鳴さんをただ見上げていた。鳴さんは笑っている。ろくでもない笑い方をしている。どうしてろくでもないかというと俺に意地悪をする時この人はこういう笑い方をしているからである。つまらなそうに口をとがらせている表情から、面白いおもちゃを見つけた子どもさながらゆっくりと口角が上がり、比例するように目尻は三日月を描き、そうして俺の名前を呼ぶ時の鳴さんは一等優しい声を出す。それは物凄くおそろしくて俺は大好きだった。これからどんな意地悪をされると分かっていてもあの声で樹と呼ばれると振り向かずにはいられないし駆け寄らずにはいられなかった。
鳴さんは俺を見下ろしている。なんにも言わずにただ微笑んでいるその姿を縋るように見上げながら、判決を待つ罪人とはこんな気持ちなのだろうかと思った。(なに言ってるんですか)と言うには今更だろうか。言うだけ言ってみようか。何度もそう考えたが鳴さんの瞳から目を逸らすことすら出来ない俺はお粗末なことに口を動かすこともできなかった。指の一本も動かせない。罪人というよりは蛇に睨まれた蛙と言った方が正しいのかもしれない。などと余計な事を考えることは出来る頭の中だけは自由だった。
鳴さんはわらっている。もう随分と長い間黙っているように思う。お喋り好きのこの人がこんなに長い時間黙っているなんて珍しいなと呑気な事を考え始めた時だった。鳴さんが左足を踏み出す。三歩分の距離が二歩分になる。今度は右足を踏み出す。一歩分になる。ほぼ真上を見上げる俺の首はもげそうだったけど鳴さんがしゃがみ込んだので首はもげずにすんだ。一歩分の距離で向かい合うというのは思っているより距離が近いのだと今初めて知った。数センチにも満たない先で、折った膝の上で頬杖をついた鳴さんの首は少し傾げていた。

「樹ィ」

鳴さんはわらっている。面白いおもちゃを見つけた子どもさながら楽しそうな顔をしている。はい、と絞り出した返事は掠れていた。「俺のこと好きなの?」「はい」「大好きなの?」「はい」「そうなんだ」 俺の返事はもれなく掠れて言っている自分でもよく聞き取れないほどだったけども鳴さんはうんうん頷いていた。「大好きなんだ」 そうなんだ、と呟いた鳴さんは楽しそうだった。ろくでもない笑顔だった。アリの巣穴に水を注ぐ子どもはきっとこういう顔をしているんだろう。

練習はとっくに終わっていて自主練をしていた人たちも皆帰ってしまった。部室には俺たちしかいなかった。カギは鳴さんが持っている。