たとえば
寒い冬の日に飲む一杯のココアとか、真夏の光線から逃げ飛び込んだ日陰の中とか、それまで追い回されていた心がほっと一息つけるようなそんな安寧が欲しいとたまに思うことがある。現状の何が不満と言うわけでもないが、ただなんとなくそう思う時があるのだ。感傷的な気分に浸りたい時は誰にだってあるのだからそうおかしいことではない。と思う。少しばかりの不安が残るのはそのことを誰にも言ったことがなく、また誰かのそういう部分を見たことがないからだった。樹の知る限りで周りにはそんなことを思いそうなひとびとはいなかったので。
「何考えてんの」と成宮鳴は言う。いかにも不機嫌だという顔をして樹を睨みながら(睨まれていると樹は思っている)口を尖らせるので、樹は反射的にすいませんと答えた。その答えもまた彼のご機嫌を損ねるのに一役買ったようで、ただ鼻を鳴らしてカレーパンに齧り付くばかりである。なんと声を掛けようか少しの間おろおろしていた樹だったが、そのうち面倒になって、結局なんの声もかけずに食べかけのおにぎりに歯を立てた。だいたいこういう時の彼は何を言っても言わなくてもしばらく不機嫌なのだ。
ぱらぱらと人気のある屋上の一角に二人は座っていた。フェンスに背中を預けているのは同じだが一方はあぐらをかきもう一方はだらりと足を延ばしている。足を折り畳んでいるのは樹の方なのにその足の上に乗せられているビニール袋は樹のものではなかった。袋の中にはレンジで温められたコロッケパンと砂糖でコーティングされた甘いパンが入っている。横暴な彼が、せっかく温めてもらったのにコンクリートの上に置いといたら冷たくなっちゃうだろと樹にあぐらをかかせてパン置場にしたのだった。野郎の股ぐらに置くことになりますけどそれはいいんですか、と言う前に別の話をされてしまったので、樹の太腿はほんのりと温かい。
ちょっと前まで夏めいていたかと思えばすぐに冬の足音が近づいて、かと思いきや急に暑い日もあり、移り変わりの境目にある僅かな期間は夏と冬を行ったり来たりしている。これを秋と呼ぶのだろうが、それにしては寒暖の差が激しかった。温暖化の影響だかなんだか知らないがここ数年ずっとそんな感じだ。目覚めの空気が冷えてきて、少しずつ着るものが増えて、練習の帰りにジャンパーを羽織るようになって、マフラーや手袋が渡される頃にはもう冬になっている。幼い頃に過ごしていた秋はそんな風に穏やかなものだった。と思う。少しばかりの不安を埋めるべく樹は隣に座る先輩に尋ねた。
「なんだか、最近秋ってないですよね」
「そう?」
最後の一切れを口に放り込み、樹の股ぐらに手を伸ばしながら答える様子は興味がなさそうだった。適当な返事に樹は少しがっかりして、ビニール袋の中を右往左往している手を退けようとした。
「あの……股間まさぐるのやめてもらっていいですか」
「まさぐってねーよ」
と言って掴んだのはパンではなくまさしく股間だったので、樹はぎゃあと声を上げて鳴はウワッと顔を顰めた。「ちょっとー変なモン置いとかないでよ握っちゃったじゃん」「元々ついてるんですけど!」 顰め面のまま引っ込めた手を再び伸ばした鳴は今度こそコロッケパンを掴んで封を開けた。パン置場を改めるつもりはないらしい。樹は小さく息を吐いて、脇に置いていたビニール袋から二個目のおにぎりを取り出した。温めていないのでこれ以上冷たくなりようがないと思っていたが、なるほど、コンクリートに置いていたおにぎりは僅かに冷えていた。
「好きなの?」
唐突に訊かれて――それが自分に向けられたものだと気付かなかったので――樹はぼんやりとおにぎりを齧っていた。おい、と腕を小突かれて慌てて隣に顔を向けると少し前にもみた表情がそこにあった。不機嫌な成宮鳴である。
「お前さぁ、俺の話聞く気ある?」
「あ、あります、……よ」
樹の返事を疑っているのか、目を細めてフゥンと視線を外した鳴はコロッケに齧り付きながら「秋」と言った。「好きなの、秋」 それが今さっきの繰り返しだと理解した樹は、彼がまた機嫌を損ねる前に答えようとして反射的にハイと言いかけたが、逡巡した後「特別好きというわけでは」と返した。
「嫌いなの?」
「嫌いってわけじゃないんですけど、うーん……普通ですかね」
暑すぎるのも寒すぎるのも好きではないが、手がかじかんで動かなくなるよりは動くたびに汗が流れる方がまだ良い。オフシーズンでは試合も出来ないし練習も体力作りを基本とする内容になる。野球を中心にして考えた時、好きな季節は夏だった。
冬生まれなんですけどね、と言うと「俺だってそうだよ」と鳴は言った。そういえばこの人とは同じ月の生まれだったなぁと思った所で、隣の彼はさらに続けた。
「俺さぁ、冬って嫌いなんだよね」
「へぇ」
「朝起きたら寒いし走ってても寒いし寝る時の布団もつめてーし」
文句を言うその様子は冬というよりは寒さを毛嫌いしているようで、指も動かないし練習もつまんないし試合できないし……と挙げ連ねている。正しくは寒さとオフシーズンか。
丁度良く、びゅうと風が吹き抜けた。鳴は「さっっむい!」と声を荒げてシャツの襟を立て、樹もまた肩を竦めた。そろそろブレザーを着てこようかしら。実を言うと数日前に冷たい風に煽られてブレザーを出したのだが、それからしばらく暑いくらいの日差しが続いたために未だ出番はない。嫌味のように吹いた風はそれきり姿を現さず、緩やかな午後の日差しがじんわりと二人の体を温めはじめる間も鳴は寒い寒いと言っているので、確かに冬は寒いけれどそう悪いことばかりじゃなかろうと樹は口を開いた。
「でも、寒い日に飲むココアっておいしくないですか」
たとえばそれまで追い回されていた心がほっと一息つけるような、そんな安寧を求めて寒い日にはココアを飲む。コーヒーの方が格好つくとは思うけれどやすらぎに格好良さは必要ないので、樹は自分を甘やかすように甘いココアを飲むのだが、話しかけた相手が真面目な顔でじぃと自分を見つめてくるので、樹はすぐに(言わなきゃよかった)と思った。さっきみたいにどうでもよさそうな返事をされたらきっと自分は嫌な気持ちになるだろう。でもそれは樹の勝手で、興味がないのも鳴の勝手なのだからどうしようもないことなので、だからこそ自分は嫌な気持ちになるであろう予感があった。そしてこういう考え方こそが樹の勝手であり、悪い癖でもある。多田野樹はまず悪い方向から物事を予測立てるのだった。
もちろん鳴にとってそんな勝手など知ったことではない。あと二口程度残ったコロッケパンを片手に持って、どこか緊張した様子の後輩を見つめていた彼はふと視線を外しながら「まぁそうかも」と言った。
「でも俺ココアあんまり好きじゃない。コーヒーがいい」
「鳴さん甘いの嫌いでしたっけ」
肯定的な返事を寄越されて、ほっとした樹が尋ねる。
「別に嫌いじゃないけど」パンを齧り、残った一欠がソースもなにも付いていないコッペパンの端だと気付いて、味のないそれを樹の口にねじ込みながら鳴は言った。「格好つかないじゃん、ココアだとさ」
急に詰め込まれたパンを咀嚼しながら樹はがっかりしていた。寒い日に一緒にココアを飲んで、二人でしあわせになれたらと思っていたからだ。
黙ってパンを飲み込んだ樹の股ぐらに最後の食事を求めて手が伸びる。砂利のように砂糖がまぶされたパンは食べるのにココアは飲まないなんて意地の悪い人だと、樹は勝手な悪態をつくのだった。
20141103 幸福論
案外身勝手な樹くんが好きみたいです
|