赤松が初めて投げた硬球を受け止めたのは多田野だった。南沢シニアに籍を置いた二日目のことだ。小学生の時分から野球をしていた赤松も硬球を扱うのは中学にあがってからだが、十二やそこらの子どもには余るそれを持ったことがないわけではなかった。シニアに入る前に慣れておいた方がいいだろうと両親が買い与えた、指の叉が裂けそうなほど大きなそれを挟んでみたり、父のミットに投げ込んだりしていた。フォームが変わったわけでもボールの様子が変わったわけでもなんでもない。だというのにシニアのユニフォームを着てブルペンで多田野に一球を投じた瞬間、未だ知らぬ絶頂にも似た興奮が、赤松のつむじから足の爪先まで駆け抜けたのだった。ストレートど真ん中に投げた球は意に反して少し反れてしまったが、ミットは正確に軌道を追った。一際高く響いた音の後で、ナイスボール! と飛んできた声で我に返った赤松は、返されたボールがグローブに収まり、いつまでも投球姿勢に入らないことを指摘されるまで、多田野を見つめていた。
南沢シニアにいる捕手は多田野だけではなかったけれど、誰に受けてもらうより多田野に受けてもらった時が赤松は良い投球が出来た。試合に出ることも増えた。赤松は嬉しかった。あの日感じた直感は間違っていなかったのだと。

「俺、センパイと一緒ならどんなバッターでも打ち取れる気がします」

赤松は、あの時の感情を多田野に伝えたくて、しかし思いついたその言葉を伝えるのはどうにも気恥ずかしく、一番近いような気がする言葉を口に出した。そう思っていることは事実だし、それが出来るという自信もあった。シニアに入ってまだ一年も経っていない若輩が放つ言葉に多田野は笑った。

「そうだな。晋二なら出来るかもな」

多田野のそれは冷笑ではなかった。才ある後輩だから、倨傲な言葉もきっと真実になるだろうと思っていたのだ。それは赤松を評価している証である。赤松もそれを読み取り、今後も精進していく旨の言葉を返したが、多田野の返答に彼自身が含まれていないことはついぞ読み取ることができなかった。







多田野が卒業するとき、赤松は少しだけ目を赤くしながらあと一年待っててくださいと言った。同じ高校に入ってまた一緒に野球をやるのだと、多田野が進級した年の春、本人もまだどこ行くのか決めていない頃から言い続けていた赤松は、多田野と会える最後のシニアの帰り道でも同じことを言った。もう何百何千と聞いている言葉に、多田野は何百何千と同じ返事をした。

「うん、待ってる」

その日も、涙の跡が窺える頬に苦笑しながら多田野は頷いた。何百何千繰り返された問答の中で多田野がいい加減疎ましそうな気を見せることは一度たりとてなく、不安に駆られる子供を安心させるように、待っているから大丈夫だと告げ続けた。その言葉があったから、赤松は軋む骨の痛みを乗り越えることができた。激痛に眠れず涙を流した夜も、そのたびに待っているよと優しく笑う多田野の顔を思い出した。多田野センパイとまた野球をするんだ。たくさんのバッターを打ち取って、エースになって、そうしてあの人に「お前は最高の相棒だ」と言ってもらうのだ。













「俺は大学に行くよ」

センパイは卒業したらどうするんですか、という質問に多田野はそう答えた。夏が終わり、世代交代に向けて動き出している日の、夜も更けた頃だった。自販機横のベンチで缶ジュースを煽りながら「勉強したいこともあるし。野球もするけど」 晋二はプロだろ? とまるで当たり前のように言うものだから、赤松は言葉に詰まってしまった。プロに興味があると話したことはあったが、そのじつ本気で考えているわけでもなかった。

「……よくわかりません」
「なんだそれ」

ふは、と息を吐いて、まぁまだ一年あるしなと多田野が言う。その瞬間、赤松は妙な焦燥を感じた。すぐ隣に居るはずの多田野がとても遠くに感じられて、自分一人置き去りにされたようだった。18.44メートル先で自分を導いてくれた姿はたちどころに消え失せて、マウンドでひとり、赤松は途方に暮れた。
そんなことを知る由もない多田野は、赤松がプロに行った時の想像を話した。それは賞賛の言葉で、喜ぶべきことであるのだが、赤松にとって言葉のどれもが自分を突き放しているように聞こえてならなかった。

「多田野センパイとなら、きっとなんでもできます」

置いて行かないでください。これからもずっと俺と一緒に野球をしてください。
そう言いたくて、まさか言えるはずもなく、必死で言葉を探した赤松が絞り出したそれに多田野は声をあげて笑った。

「なんで笑うんですか」
「あはは、あぁ、ごめん。そうじゃなくて」

馬鹿にしたわけではなくて、と多田野が言う。

「晋二って昔からそうだなぁと思ってさ」
「そうって?」
「『俺となら』ってやつ」

未だに笑いながら赤松を見る多田野は、「買い被りすぎだと思うよ」 と言った。

「別に俺、晋二が思ってるようなすごい人間でもなんでもないし」

晋二の方がよっぽどすごいと笑いかける多田野は、自分の吐いた言葉がどれほど酷薄か考えることもなかった。四年前のあの日、赤松が誰のミットに触れて高揚したか、割れそうなほど痛む膝を抱えながら何を思って耐えたのか、多田野の知る所ではない。まさか自分が目の前にいる後輩から尊敬されているなんて微塵も思ってはいないのだ。自身を過小評価しがちな、そういう謙虚なところを赤松は愛しいと思っていたけれど、この時ほどそれを憎んだことはなかった。

「そんな」、そんなこと言わないでください、俺は、「センパイとずっと野球がしたいんです」。

馬鹿みたいだと思われても、あの時言っておけばよかったのだ。近いような言葉で妥協せずに、運命だと思ったと四年前のあの時に言っておけば、今途方に暮れることも、彼の前でみっともなく涙を流すこともなかった。







俯いて、滲んだ声で呟いたきり黙り込んでしまった様子に慌てて大丈夫かと声をかけると、俯いたまま赤松が凭れかかってきたので、多田野は少し驚いた。シニアから高校まで、どんなに負けても頑なに肩を借りようとはしなかった赤松は今、多田野の左肩に顔を埋めている。
じわりと湿った肩口の感触は分かっても、なぜ赤松が泣いているのかついぞ分からぬまま、自販機の発する鈍い音を聞きながら多田野は途方に暮れていた。






運命じゃない人/20141221