尊敬する人は誰かという問いに、自分の名前を答えた多田野がどんな顔をしていたのか成宮は知らない。たったひとつしか年の違わない、まだ高校二年生であるところの成宮を、自分がこの世で最も敬意を払う人間という偉大なフィールドに当てはめてしまっていいのかと、唯我独尊をひた走るような成宮ですらその返答に少し憂いた。成宮の中で『尊敬する』というのはとても崇高なものだ。その人に憧れ、その人を目指し、その人のようになりたいと願い、けれど絶対に成り代わることは出来ないほど遥か高みに位置している、そんな人物に対して成宮は尊敬という言葉を使いたいと思っているので、多田野曰く成宮鳴が自分にとっての江夏豊だと納得するのは些か難があった。これまで憧れていると言葉を掛けられたことは山ほどあるが、尊敬していると言われたのは初めてだった。成宮は自分の実力をよく理解しているけれど、いつだかどこの誰かに『成宮さんは俺の憧れです』と言われた時のように喜べなかったのは、この先に続く長い人生の高みに据えるには未完成な部分が過ぎると思う気持ちの方が強かったのかもしれない。
〇
洗濯室の前で見つけた多田野は、山の様に重なり合った汚れ物が入ったカゴを抱えたままドアに半身を挟んでいた。
「なんの遊び?」
半分廊下に身を出しながらどたどた動いている多田野に声をかけると、顔だけで振り向いた多田野が鳴さん、と顔を緩ませた。助かったという気持ちがありありと浮かび出た顔に少し意地悪な気持ちが出る。そのまま何もせず眺めていると、太い眉がゆるゆると下がり、多田野は困った顔になっていく。鳴さん……と再度名を呼ぶ声はまるで捨てられた子犬だ。
言え。早く言え。助けてくださいって言え。
盛大に意地の悪い気持ちになっている成宮を知ってか知らずか、それからすぐに捨てられた子犬の声で多田野は助けを乞うたので、成宮は手を貸してやることにした。ドアを開くと「すみません、ありがとうございます」と言って中に入っていく。ついでに電気もつけてやると、一瞬足を止めてすいませんと軽く頭を下げた。
部屋の一番奥まで進んだ多田野は、両手いっぱい使って抱えていたカゴを片手で支えると、もう片方の手で洗濯機の蓋を開けてカゴをひっくり返した。どさどさと漫画のような音を立ててなだれ落ちた汚れ物を平らに直し、棚から共用の洗剤を取り出して量った分を放り込む。空になったカゴを床に置いたら、あとは蓋を閉めて洗濯が終わるのを待つだけだ。よし、と一人ごちた多田野は、振り返った先に成宮の姿を見てワァと驚いた。
「なんだよその反応は」
何に驚いてんだよ、と空の洗濯機に寄りかかって腕を組む成宮に、あぁいえ、すみません、などと煮え切らない返事をして、結局何も言わずに黙り込んでしまった。成宮は洗濯室に用などない。たまたま困っている多田野を見かけて、助けたついでになんとなく中に入ってしまっただけだ。多田野だって明らかに用のなさそうな成宮が帰らずその場にいたことに驚いたのだろう。どうしてドアを開けてやったあとそのまま帰らなかったのか。どうして中に入って、多田野が洗濯を待つ姿を見ているのか。
成宮にとって多田野樹は特別な後輩ではなかったが、原田の引退後、後継として正捕手に据えようと考えているという監督の意向を耳にして、どんなヤツかと気になってはいた。目をかけてみればなるほど、他の控え捕手と比べれば中々光るものがあるようにも見えるが、去年からずっと成宮にとっての『捕手』は原田雅功という男なので、原田と比べるとまだまだ話にならない、そんな印象だった。
腕を組んで黙り込む成宮を正面にして、多田野は居心地悪そうに指をいじっている。
「お前さ、」ゴゥンゴゥンと大きな音を立てて洗濯機がまわっている。それなりに年季の入ったものなので音は立つだろうが、それにしたって大きな音だった。いっぺんに入れ過ぎなんだよな、と思いながら、機械音に負けぬよういつもより少し大きな声で成宮は言った。
〇
夏が終わり、三年生が引退してから多田野は正捕手となった。相変わらずチェンジアップを受けきれないが、それでも以前に比べると力をつけたと思う。(まぁ、雅さんに比べたら全然だけど)ひとりごちて、返されるボールを受け取る。今度は少し低めに、と構えられたミット目がけて、成宮は大きく振りかぶった。
「ナイスボール!」
ブルペンに響く小気味よい音に満足そうに目を細めた成宮に多田野が声をかける。
「鳴さん、今日調子いいですね」
「俺はいつでも調子いいし。誰に向かって言ってんの」
「そうですね」
鳴さんですもんね、と多田野が笑う。なんだか機嫌が良さそうだ。
「なに、ご機嫌じゃん今日は」
いいことでもあったの、と尋ねた成宮に「いいえ」と笑顔のまま多田野は首を振った。「特には、なにも」じゃあなんだその笑顔は。成宮は訝しんだが、不機嫌ならともかく多田野はニコニコ笑っているので、悪いことではあるまいとそれ以上は何も聞かなかった。
その日以降しばらくの間、成宮たちの秋が終わるまで、多田野はあの時のような笑顔を見せなかった。塞ぎ込んでいたわけではない。笑って会話をすることはもちろんあったけれど、あの日向けられたような顏を成宮は見ていない。
秋の敗戦は不幸な事故ではなかった。過失のある、間違いのない敗北だと成宮は思っている。すべて自分が悪いと言うつもりはない。それはあまりにも驕った考えだ。このチームは成宮のワンマンチームではないのだから。
それでも、三年生のいなくなった今、自分がエースとしてチームを引っ張って行かなければという気持ちが走り過ぎていた。敗北の要因はそこにあった。
監督の言葉を噛み締めて、考えて、浮かんだのは女房役の顔だった。チェンジアップのサインに首を振った時、多田野がどんな顔をしていたのか成宮は知っている。重たげな瞼を見開いて、キャッチャーマスクの隙間から成宮を見つめていた。二度目のサインに首を振った時、多田野は見開いた瞼を閉じて目を伏せた。一瞬のことだ。またすぐにこちらを見つめ、成宮の言わんとすること理解した多田野は小さく頷いてミットを構えた。
押し切る自信は十分にあった。確実に討ち取れると判断したから成宮は二度首を振った。成宮にとっては後輩のことも考えて出した結論だったけれど、多田野はどう感じたのだろうか。
一塁ランナーとのクロスプレーを経て逆転を許した瞬間、取りこぼしたボールに手を伸ばす多田野の背中を成宮は見ていた。立ち上がり、掴んだボールを茫洋と見つめる背中をホームベースの後ろから目にしたその時、頭の中でふと何かが切れた。それまでうるさいくらいに聴こえていた実況の声や歓声が急に遠ざかり、わんわんと耳鳴りの様な音ばかりが聞こえている。少し離れた場所にいる多田野の背中以外のすべてがぼやけだしてピントが合わなくなった。よくない兆候だ。逆転は許したけれどまだ試合は終わっていない。俯いてホームベースを見つめる多田野に声をかけてやらなければ、俺はエースだから、俺がチームを引っ張らないと……。
名前を呼ぶと多田野はすぐにやってきた。ボールの汚れを拭い差し出した多田野を正面から見た筈なのだが、どんな顔をしていたのか、成宮はちっとも思い出せなかった。
〇
青道と薬師の決勝から暫く、冬の寒さが近づいてきたある日の晩に洗濯室の前で多田野を見た。山盛りになったカゴを抱えてドアを開けようとしているが、ドアノブが掴めないのかガチャガチャ音が鳴るばかりで一向に開く様子がない。向かいから歩いてきた成宮に気付く様子もなく、あれ、よっと、などとひとり言を呟きながら格闘している姿が可笑しかった。
「なに遊んでんの」
成宮の声に、カゴからひょいと顔を出した多田野はホッと顔を緩めて「鳴さん」と言った。
「すみません鳴さん、開けてもらっていいですか?」
多田野はドアノブから手を離して両手でカゴを抱え直している。成宮がドアを開けてくれるものと信じ切っている様子に、少し意地悪な気持ちが沸いた。にやりと笑って腕を組んだ成宮に多田野は首を傾げるばかりだ。
「どうしよっかな」
「そんなぁ……」
子犬の様な声に思わず吹き出す。
「樹、今すっげーなさけない顔してるよ」
「誰のせいですか、もう」
かわいそうに眉を下げるので、仕方ない、特別だぞともったいぶってドアを開けてやった。ついでに電気も点けてやる。洗濯室を進んでいた多田野は、足を止めて振り向き、成宮の顔を見て「ありがとうございます」と言った。
部屋の一番奥まで進んだ多田野は、抱えていたカゴを片手で支えると、もう片方の手で洗濯機の蓋を開けてカゴをひっくり返した。どさどさと漫画のような音を立ててなだれ落ちた汚れ物を平らに直し、棚から共用の洗剤を取り出して量った分を放り込む。洗濯機の蓋を閉めた多田野は、振り返った先に成宮の姿を見つけて不思議そうな顔をした。入口に一番近い、多田野からふたつ離れた洗濯機に成宮は寄りかかっている。
「鳴さんも洗濯ですか?」
「そう見える?」
どこに洗濯物があるというのだ。空のカゴを両手で抱えたまま多田野は苦笑した。
それから少しの間、二人の間に言葉はなかった。役目を果たそうと動いている洗濯機の音ばかりが部屋に充満していた。ゴゥンゴゥンと重たい音はいつも成宮が聞いているより大きい気がする。(中に入れすぎなんだよ)と成宮は思い、はて、と頭を巡らせた。どこか覚えのある感じ。
目線を斜め上に飛ばしつつ既視感を追い始めた所で「鳴さん」と声が聞こえた。
「すみませんでした」
ゆっくり視線を戻した先で、多田野の瞳とかち合う。一瞬なんのことか分からなかった。背筋を伸ばして真っ直ぐに自分を見つめてくるその目を見て、言葉の意味を理解した後、それまで凪いでいた胸の奥がカッと燃えたように熱くなった。
「なに、謝ってんだよ」
ほんの僅かに眉を寄せた、真剣な眼差しで向かってくる多田野に、成宮は唸るように返した。
お前に責任がないわけじゃないけれど、お前ばかりの責任でもない、俺はお前を信じて、信じては、「もう何百回も言って、うるせぇって思うかもしれません」「でも、俺、頑張ります」「どんな球でも受け止められるようになりますから」あのとき俺は間違いなくストレートで押し切れると信じていたから樹のサインに首を振ったのだ。自分の力を信じていた。裏切りのつもりではなかった。「鳴さんに信頼してもらえるようなキャッチャーに、きっとなりますから」
だから……と口を噤んだ多田野はそれきり何も言わなかった。
お前を信じていなかったわけじゃない。
成宮はそう言ってやりたかったが、何度試しても喉の奥で言葉が詰まるので、とうとう諦めて口を閉じた。
〇
入浴を済ませた成宮は、その足で室内練習場へ向かった。道すがら、何人か練習を終えて戻るチームメイトとすれ違った。明らかに風呂上りの体である成宮を見て何しに行くんだと尋ねてくる者もいた。それに適当な返事としながら足を進める。もう誰もいないかもしれないと思いながらも、成宮の足が止まることはなかった。
渡り廊下を歩き、辿り着いた練習場は明るかった。風を切る音が聞こえる。入口から数歩入った所で成宮は足を止めた。
「樹」
呼びかけに、構えていたバットを振り抜いてから多田野がこちらを向いた。ぺこりと頭を下げる。練習場には多田野ひとりだけだ。
「まだやってたの」
「ちょっと素振りを」
「風呂閉まっちゃよ」
「はい。でもあとちょっとだけ」
夕食もとうに終わり、ほとんどのものは入浴を終えてゆったりと過ごしている時間である。消灯も遠くない。そろそろ風呂の火が消される頃だが、多田野はあと十分続けるつもりらしい。入浴時間を省みてそのくらいなら間に合うと踏んだのだろう。
「ていうか、鳴さんは何しに来たんですか? お風呂あがりですよね……あれ、なんでボール……」
「グローブ持ってきてる?」
多田野の言葉を無視して尋ねると、戸惑いながらも頷き、邪魔にならないよう脇に置いていたグローブを取りに行く。嵌めながら小走りで戻ってくる多田野に、グローブを嵌めて準備万端の成宮がにっこりと笑った。
「キャッチボールしよ」
ボールを投げて、受けとめて、投げ返す。なんの変哲もないただのキャッチボールだ。疲れるものではないが、続けていれば汗ばんではくるだろうそれを、今しがた汗を流してきたばかりの成宮がなぜ始めたのか多田野には分からなかった。キャッチボールをしようと言ってから成宮は一言も話さないので、多田野も同じく黙っていた。
何十回目かの往復の後、「あのさぁ」と成宮が言った。
「今年の夏前にさぁ、聞いたじゃん」
「なにをですか」
成宮がボールを投げる。弧を描いてやってきたそれを受け止め、右手を振りかぶった多田野が尋ねた。
「尊敬する人だーれ? って」
飛んで行ったボールが成宮のグローブに収まるのと同じタイミングで多田野は首を傾げた。少し考えて、思い出したのだろう顔を上げる。
「それって結局、うやむやで終わりませんでしたっけ」
「そうだよ。お前が洗濯機壊すから」
「壊してはないですよ! ちょっとやばかったですけど……」
あの日、成宮が口を開いた直後に洗濯機が大きな音を立てて急停止した。ビービ―と明らかな非常音を喚き散らす洗濯機に関係ないはずの成宮までもが慌ててしまって、ボタンを片っ端から押してみたり外から叩いてみたり、とにかく大変だった。それから洗濯機は止まり、洗い物の量を減らして再開すると先程までの騒ぎが嘘のようにつつがなく動いたのだった。
「よくばりすぎなんだよ、あれもう古いんだから労わってやんないと」
「あれからちゃんと気を付けてますって」
ボールを投げながら、どうだか、と成宮が笑う。
「さっきも危なかったけど」
これまでと変わらず綺麗な弧を描いたボールは多田野のグローブからわずか外れて床に落ちた。
「すいません」
多田野がボールを拾う。すぐに投げ返さない様子に「お前さ、」と成宮は言った。
「尊敬してる人って誰?」
手元のボールを眺めた多田野は、そのまま腕を振りかぶって投げ返した。かなり大きい。「おいコラ!」大暴投である。
捕球体制に入った成宮の頭上を大きく越えたボールはそのまま床に落ちてころころと転がっていく。
「テメー! わざとやってんだろ!!」
ふっざけんなよな、とブチブチ文句を言いながら拾いに向かった背中に「鳴さん」と多田野の声が掛かる。
「あ!? なんだよ!」
「鳴さんです」
「なにが!!」
「尊敬してる人」
転がっていったボールをようやく捕まえた成宮が振り返っても、壁際近くまで拾いに走ったせいで多田野とは遠く離れてしまった。あんまり離れていたのでどんな顔をしているのかわからない。
温かい湯船に浸かってさっぱりしたところだったのに、こんなに走らせるので体中にじんわりと汗が滲んでしまった。ボールを握り直した成宮は渾身のストレートを投げた。パァン、と小気味良い音の後に、多田野が小さくグローブを振る。手が痺れようが知ったことか。成宮は腹を立てていた。
「戻るよ」
それだけ言うと、多田野が戸締りをする間も、練習場を出て部屋に戻る間もずっと、成宮は無言だった。半歩後ろをついていく多田野も静かにしている。成宮の部屋の前までついてきた多田野は、部屋に入ろうとする成宮に頭を下げた。
「おやすみなさい」
「まだ寝ねーよ」
「え?」
「風呂で待ってろ」
と、多田野の鼻先でドアが閉められた。
数分後、着替えを持って部屋を出ようとした成宮はギャアと叫んだ。
「なんでまだいんの!? 準備して風呂行っとくでしょ普通!」
「だ、だって鳴さんグローブとボール俺に持たせっぱなしじゃないですか」
「呼べよ! じゃあ! なに突っ立ってんのバカなの!?」
多田野の腕から乱暴に取り上げたそれらを部屋の中に置いた成宮は、さっさと来いよ! と怒鳴って大浴場に行ってしまったので、多田野も慌てて自分の部屋に戻った。
〇
「あーー寒い!!」
自販機で買ったホットココアで両手を温め騒ぐ成宮に、ホットコーヒーを飲みながら「だから言ったのに」と多田野が呟いた。
「外寒いですよって言ったじゃないですか」
「だって風呂入ったのにさみィんだもん。樹のせいで」
「俺のせいですか?」
「汗かくほど走らせたのはだーれーかなー」
それを言われてしまってはぐうの音も出ない。黙り込んだ多田野にフフンと鼻を鳴らして、成宮はプルタブを開けた。
思っていたよりも時間はなかったらしく、二人は向かった頃にはあと十五分で完全消灯という頃だった。慌てて風呂に入り手早く汗を流して飛び出した後、間もなく戸締りとなる更衣室から髪も拭かずに出てきた多田野は、同じく髪を濡らしたままの成宮に『このまま部屋に戻るのは癪だ』と連れてこられ、自販機横のベンチに座っている。手持ちがないという主張は「取ってくればいいだろ」の一言で退けられた。自販機からほど近い部屋は便利で良いと思っていたが、今日ばかりは不運だった。
大きく息を吐くとたちまち白い煙のように現れ、すぐに消えていく。鼻の頭がツンと冷えるのを感じて、そろそろ戻りましょうと多田野は言ったが、成宮は曖昧な返事をして動こうとはしなかった。
「鳴さん、風邪ひきますから」
オフとはいえど体調管理は大切だ。戻りましょう、と少し強めに繰り返した多田野を見ずに、両手でココアを持ったまま成宮が口を開いた。
「樹の中で、尊敬するってなに」
はぁ、と理解しかねるような声を漏らした多田野に顔を向けて成宮は繰り返す。
「どういう意味なの? 尊敬するってのはさ」
成宮にとって尊敬という言葉はただの憧れではない。憧れる人というなら数人いるが、そうではないのだ。成宮の尊敬は憧れの先に存在している。
個人によってその尺度は違うだろう。純粋な興味だった。自分を尊敬すると言った、多田野の尺度が知りたかった。
顔を合わせた多田野は、少し考えて「憧れとは別ですね」と言った。
「別なんだ」
「そうですね……うん、違いますね」
「じゃあ憧れの人って誰よ」
「雅さんとか、御幸さんとか。あっ帝東の乾さんもすごいですよね。勉強になります」
「みんなキャッチャーじゃん」
なんとも分かりやすい。へぇ、と返す成宮に多田野が続ける。
「尊敬はなんていうか、一生かなわないんですけど、隣に立ちたい、でも勝ちたくはない、みたいな……うーん、ちょっと違うな……」
難しいなと手元のコーヒーに顔を落として、また暫く考えた後「うまく言えません」と多田野は笑った。
「うまく言えないのに俺のこと尊敬してるの?」
「意地悪なこと言いますね」
そう言われるともっと意地悪してやりたくなる。成宮はニンマリ目を細めた。
「じゃあもっと分かりやすく言ってよ。別にうまくなくていいからさ」
成宮は、無茶言わないでください、と困ったように笑う多田野を想像していた。
多田野は静かに笑った。
「好きです」成宮の目を見て、丁寧に言葉を続ける。「でも愛してとは言えない」
「そんな人です」
静かな雰囲気のまま、人差し指の背で真っ赤になった成宮の鼻先に触れた多田野は「戻りましょうか」と言って、ひっそり笑った。
道中地獄旅
20150105
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