あ、雁夜? 私だけど。突然だがね、猫を飼い始めたんだ。飼い始めたというかこの間拾ったのだけど。二匹。子猫でね、茶トラと白猫の雄なんだ。すごくかわいいんだよ。本当に、目に入れても痛くないくらいかわいいんだ。よちよち歩いてね、お腹が空いたら私のところに寄ってきてにゃあにゃあ鳴くんだ。かわいいんだよこれが。だから雁夜、明日うちに来てくれないか。ね、私明日は午前中しか授業入ってないから。確か雁夜、明日は午後の授業が休講になったって言ってたよね。じゃあ暇だよね。お昼一緒に食べようよ。え? もちろんうちでだよ。なに言ってるんだい。わかってるくせに。
電話をかけてきたと思ったらいいたいことだけ言い捨ててすぐに切った時臣に、アパートでひとり夕食を食べていた雁夜は瞑目した。なんなんだこいつは。普段は絵に描いたような優等生っぷりだが、彼にはこういうところがたまにあった。最後にもっともらしく昼食の約束を取り付けられたがそれも全ては最近飼い始めた猫を見せびらかすためだろう。その猫が大層可愛らしいのは電話の様子でよく分かったが、そこからどうして「だから雁夜明日うちに来て」に繋がるのか、十五分間考えてみても答えは出なかった。
たまに出る、時臣の突拍子もない言葉を真面目に考えたところでいつもどおりのそれには何の意味もないのだということに、食べかけだった冷やし中華が汁を吸ってすっかり膨らんだ頃ようやく雁夜は気がついた。
午前の講義を終えた雁夜はそのまま時臣の住むマンションに向かった。どうせ昼食を食べるのだし、と思い何も持たずに来たのだが、満面の笑みで迎えた時臣は気にしていないようだった。
「いらっしゃい。待っていたよ」
普段よりも露骨に嬉しそうな表情の時臣は、雁夜の手を引いて廊下を歩きリビングへと連れて行く。「雁夜早く。こっちだ」「わかったから引っ張るな」されるがままの雁夜がリビングへ足を踏み入れると、時臣は掴んでいた手を離して右側に置いてあるソファへ早足で向かった。左側の壁際には液晶テレビが置いてあり、その隣に姿見が立てかけられている。部屋の中央、扉から見てほぼ正面の位置には、ソファとテレビに挟まれるようにして長方形のガラステーブルが置かれていた。遊びにくるたびにこのお洒落なテーブルに指紋をべたべた残していくのが雁夜の仕事だ。よく拭かれたテーブルの上にはリモコンや飲みかけのお茶が入ったグラスが乗っていて、床には何も置かれていない。相変わらずの部屋だ。まるでモデルルームのような清潔さを醸し出す部屋を今日はどう散らかして帰るか雁夜が考えていると、ソファの前で跪いた時臣が雁夜雁夜と小声で呼ぶ。
「なんでいきなり小声なんだよ」
「しっ、いいから静かに」
唇の前に人差指を持ってきた時臣は、その指をちょいちょいと動かして雁夜を呼んだので、仕方なくそちらに向かった。
「ほらみて、この子たちだよ」
言われるままソファの中央に目をやった雁夜は、一瞬間をおいてから首を傾げた。こどもがふたり眠っている。六歳くらいだろうか、眩しいくらいの金色と、反対に墨を落としたように黒い髪色をしたこどもたちは、体を丸くして仲良く寄り添って眠っていた。淡いクリーム色の服は袖のないワンピースのようで、足を折り曲げて寝ても膝小僧が少し覗く程度なのでそれなりの長さはあるのだろう。ふたりはすやすやと幸せそうに寝息を立てている。それだけならまだしも(よく考えれば一人暮らしの時臣の家にこんな小さいこどもが二人もいることだっておかしいのだが)彼らの頭には猫の耳が、尾てい骨の辺りには猫の尾がついていたものだから、雁夜は首を傾げると共に目を疑った。その耳と尾も示し合わせたようにそれぞれの髪の同じ色をしているのだから訳が分からない。しかもご 丁寧に首輪までつけているではないか。
言葉の出ない雁夜を余所に、ふたりともかわいいなあとひとりごちながら時臣がそれぞれの頭を優しく撫でた。まるで愛でるように。
三日くらい、いや、その前かな? 夕方からいきなり雨が降った日があったじゃない。私はその日アルバイトをしていたんだけど、夜帰ってきたら階段の下に段ボールが置いてあったんだ。最初は誰かの荷物かと思ったんだけど蓋が空いてたからおかしいなと思って、近づいて見たら、子猫が二匹入ってるじゃないか。タオルは敷いてあったけど雨がざあざあ降っているからもうびちょびちょで。傘も置いてなかったからずぶ濡れだったのさ。自分たちも濡れているしタオルも濡れているから可哀そうなくらい震えていてね、いくら夏の夜といえど肌寒いじゃないか。傘を差している私でさえそうなんだから、全身濡れていたら、ねえ? 相当だろう? だから慌てて家に連れ帰ったんだよ。この子たちとタオルを持って、段ボールは柔らかくなっていたから置いてきちゃったんだけど。それで、タオルで体を拭いてから温いシャワーで洗って、うん、やっぱり水が嫌いみたいで結構暴れたけど、雨に打たれて弱ってたみたい。すぐ大人しくなったよ。それからドライヤーで乾かして、ちょうど家にあったツナ缶を開けて食べさせたんだ。人間が食べるツナは脂が多すぎるからよくないって聞いたことあったんだけど、牛乳も切らしていたし、お腹を空かせてるみたいだったから、手でぎゅっと絞ってからパサパサにしたものをあげたんだ。ふたりで一缶食べ終わって、後片付けをしている間に寝ちゃってたよ。次の日、置きっぱなしにしていた段ボールを片付けようと思ったんだけど、朝早くに行ったのになかったんだよね。風で飛ばされちゃったのか、誰かが片付けたのかなぁ。
ソファに座り、猫を拾った経緯を話す時臣の膝の上には先程起きたふたりのこどもが収まっていた。黒い子がキレイで、金色の子がギルガメッシュ。ああそうそう、敷いてあったタオルに名前の書かれたメモが挟まってたんだ。タオルごと濡れてひどい有様だったけど名前はちゃんと読めたよ。自分に寄ってくるふたりの頭や背中を撫でる時臣の口ぶりは完全に猫を扱うそれだが、全身で甘える彼らはどう見たって人間のこどもだった。耳と尾さえ付けてはいるけども。「…あのさ、」隣の光景を見つめながら、意を決して雁夜が口を開く。重々しいその様子に時臣は手を止めて顔を向けた。
「なんだい雁夜」
「………耳、触ってもいい?」
「? いいけど、痛くしないようにね」
優しくするんだよ、という言葉に生返事を返しながら、近い方にいた黒いこどもに手を伸ばした。時臣はキレイとか言っていたか。キレイは自分の頭上向けておずおずと伸びてくる手を不思議そうにみつめているが特に怯えた様子はない。それに安堵しながら、雁夜は指先で耳を摘まんだ。摘まむというよりは挟むに近い。指先から伝わってくる熱や毛の柔らかさ、皮膚の弾力などはまるで本物の猫の耳そのものだった。「…しっぽもいい?」問いかけに時臣が頷いたのを確認してから腕を伸ばして尾に触れる。触れた瞬間、ぴくりと揺れて逃げるように動くそれも、捕まえてみれば本物のようであるし、機械仕掛けというには動きも滑らかすぎた。
「…………なあ、時臣」
「なんだい」
時臣は、先程からどこか様子のおかしい友人を心配に思っている。けれど具合の悪そうな風でもないので何も言えないでいると、雁夜はそれきり黙りこんでしまった。何か考えているようでもある。膝の上で身じろぎする猫たちを撫でながら雁夜の言葉を待っていた時臣は、しばらくしてからようやく発せられた言葉に思わず「なんだって?」と言った。
「だから、この子たちは本当に猫なのか、って」
神妙な顔つきで何を言うのかと思いきや。時臣が声を上げて笑うと、雁夜は「おい」と怒ったような声を出したが、時臣の笑いは止まらない。「キレイとギルガメッシュが 猫かって? 当たり前じゃないか!」どう見たって猫だよといわれて、雁夜は開きかけた口を閉じた。時臣はたまに突拍子もないことをしでかすが、こういう冗談はしない。大体冗談だったとしてこの子らについている耳と尾はどう説明するのだ。
やはり自分がおかしいのだ。少し疲れているのかもしれない。そう無理やりに結論付けて、雁夜はこの事について考えるのをやめた。あの子たちは猫なのだ。耳もある、しっぽもある、どちらも温かく血が通っていた。おかしいのは自分だ。疲れている、そう、疲れているのだ。
「わりぃ、ちょっとトイレ借りるわ」
雁夜は必死で自分に言い聞かせながらソファから立ち上がる。後ろから時臣の心配そうな声が聞こえたが敢えて無視した。
冷たい水で顔を洗うと、幾分か頭がすっきりした。洗面台の横の棚に入っている真新しいタオルを勝手に拝借して顔を拭いた雁夜は、ひ、と小さく声を上げた。ちょうど頭上の位置で、鏡の中から猫がこちらを見ている。金色の子猫だ。きれいな毛並みの、赤く光る縦長い目でこちらを見ている猫は今度こそ本物だったが、振り返った雁夜の目に映ったのは棚の上に座る金色のこどもだった。ギルガメッシュだ。けれど先ほど見たような耳と尾はどこにもついていない。棚の高さは雁夜の肩ほどなので、その上に座ったギルガメッシュを必然的に見上げる形になる。
「かりや」
舌足らずな声でギルガメッシュが雁夜の名前を呼んだ。雁夜は返事をしていいものか迷って、結局数秒後に「なに」といった。仮にも子どもに対して素っ気なさすぎただろうかと考えてると「ねこはすきか?」と訊いてきた。その年の子どもらしい高い声だった。
言葉が通じている。まずそのことに雁夜は驚いた。よくよく顔を見てみると、ギルガメッシュは子どもながらもかなり整った顔立ちをしていた。今まで一度も日に当たった事がないのではないかと疑うほど白い肌に、きれいに通る鼻筋。上唇が少し薄い所為か、黙っていると意図せずとも唇を尖らせているように見えてかわいらしい。じっと雁夜を見据える目は、鏡越しに見た時と同じ赤だ。(赤目の猫なんて聞いたことがない。)雁夜が黙りこんでいると、無表情のままギルガメッシュがもう一度繰り返す。「ねこは、すきか?」。
「……好き、だよ」嘘ではない。飼ってこそいないが雁夜は猫が好きだ。けれど、もし自分が猫を嫌いであっても『好き』と答えただろうな、と頭の隅で冷静に思う。一対の赤はそれ以外の返事を許さないかのように雁夜を見つめている。
どれくらい経った頃か、雁夜には随分と長く感じられたが、ギルガメッシュはそれまでの無表情から一転、にこりとかわいらしく笑った。猫のように軽やかな動きで棚から降りるとそのまま廊下へと走っていく。あ、と雁夜が声を上げる頃には、既にリビングに着いたようで、時臣の声が聞こえてきた。ギルガメッシュ、どこに行ってたんだい。いつのまにかいなくなってるんだから。続いて、ニャー、という高い鳴き声。まぎれもなく猫の声だった。先程会話をした子どもの声ではない。
「……やっぱ疲れてんだな…」
雁夜はもう一度顔を洗って、洗面所を後にした。今度は顔を上げても猫と目があったりはしなかった。
リビングに戻るのは少し恐ろしかったが、帰るにしても車の鍵も家の鍵もすべて鞄の中で、その鞄はソファの横に置いてある。つまりリビングだ。それに、もし鞄が雁夜の手元にあったとしても、家に来て早々何も言わずに帰るなどという非常識な真似はいくら旧知の仲である時臣相手でも出来ない。
廊下からリビングへ続くドアは開け放されている。部屋から漏れる時臣の楽しげな声を聞きながら雁夜は恐る恐る足を進めたが、ひょいと廊下に顔を出したキレイを見て、雁夜は馬鹿らしくなり普通に歩いた。部屋の手前でちょこんと座りこんだキレイを抱き上げる。子猫は嬉しそうにニャアと鳴いた。
部屋の入口からソファに目をやると、ねこじゃらしを手に時臣がギルガメッシュとじゃれているところだった。ぱたぱたと不規則に動くそれに飛びつくギルガメッシュはただの子猫だ。次いで自分の腕に目をやる。大人しく抱かれているキレイも、ただの黒い子猫だった。
やっぱり疲れていたんだ。どうかしている、猫が子どもにみえるなんて。安堵の息を吐いた雁夜は、何気なく左側に目をやった。そこには姿見があった。鏡越しに目があったのは自分ではなかった。長いまつげに縁取られた黒檀の瞳が雁夜を見つめていた。「かりや」鏡の中でこどもが笑う。黒い髪のこどもは、雁夜の胸に頭を擦りつけながら舌足らずな声で尋ねた。
(ねこは、すき?)
20120504 さかさまの森
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