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それは夢の中だった。果たして本当に夢なのかどうかの確証はないが、何もない真っ暗闇の中にいるのだ。夢に決まっている。おまけにこんな暗闇の中だというのに、自分の体ははっきりと見えるのだから。そして、 「なぁ、連れてってやろうか」 向かいに立つ褐色の肌をした、体中がなにか紋様のようなもので覆われている少年にそう言われた。眉まで下げたターバンと顔の隅々まで至る紋様のせいで顔立ちはよくわからないが、少年はいたずら好きのする顔でにんまりと笑っている。 連れて行くって、どこにだい。私が行きたい場所を君は知っているのかい。 「知ってるさ」と少年が頷く。「だってアンタは魔術師だろ? 魔術師が行きたい場所なんて決まってら」 みぃんなおんなじ場所に行きたがるんだからと、可笑しそうに手を伸ばして私の腕を掴む。 「連れてってやるよ」 「本当に?」 「ほんとうほんとう」 少年の申し出は願ってもないことだ。なにせこの少年に着いていくだけで一族の悲願が成せるのだ。行かない手はない。私は引かれるままにふらふらと少年の後を着いて行った。同時に頭の隅で(これは夢だ)と冷静に思い、くだらない妄想をする暇があったらさっさと起きて宝石に魔力を充填したらどうだなどと言ってくる私がいる。それもそうだと思いながら、しかし、夢なのだからと説き伏せるように返す。夢なのだから少しくらい好きにしたっていいはずだ。益体のないことに時間を費やしても、どうせ夢なのだし、目覚めてからの魔力を充填する時間が減るわけでもなし。そう言うと、不満そうな顔をしていた私は渋々といった様子で消えていった。そうだ、どうせ、夢なんだから。 「君の名前を訊いても?」 前をゆく少年は振り向いて、空いている人差し指を唇に当てた。「それは秘密。」 「着いたよ」 少年が立ち止ったのはぽっかり空いた孔の前だった。直径は六十メートルくらいだろうか、大きな孔の底にはどす黒い泥のような何かがぼこぼこと音を立ててマグマのように泡ぶいている。 ここが本当にその場所なのか? 根源とは、このように物理的なものなのか? 渦巻く黒い泥を呆然と眺める私の顔を少年が覗きこんでくる。「イメージと違った?」それに頷こうとして、そもそも私は根源をどのようなものだと考えていたのだろうかと思う。誰も辿り着いたことがない、誰も見たことがないから、こんな風に物理的なものなのかそれとも形を成さない抽象的なものなのか、そもそもひとつの場所に在る物として留まっているようなものなのか。見たことがないからわからないのも当然ではあるのだが、泥のようだから根源ではないと否定するのもおかしい。私は首を横に振った。 さて。いよいよ辿り着いたわけだが、これといって特に目新しい変化は見られなかった。どうやらあの泥自体がそれであるらしい。では、と飛び込もうと足を一歩踏み出したところで肩を掴まれる。 「待った待った」 「なにかね、ここまで来て」 まさか見せるだけ見せて終わりだということはないだろうな。思わず睨むような目つきになり、少年がコワッと大げさに呟く。 「いやね、俺としては別に飛び込んでもらってもいいんだよ? アンタは聖杯に対してとびきりの敬意を払ってるから心証いいし」 でも、と少年は目の前に指を立てる。 「アンタはまだ勝ってない。あと五人も残ってる。聖杯を手にするのは勝ち残った者って決めたのはアンタらだろ?」 確かにそうだ。頷くと、だから飛び込むのはダメ、と私の体を押して孔の淵から遠ざけた。泥が見えなくなってぽこぽことあぶくの弾ける音だけが聞こえる。ああ、すぐ目の前に悲願があるというのに。私は心の底から惜しんだがルールを決めたのは我が先祖である御三家だ。始まりの御三家に連なる者である以上、公正なルールの元で聖杯を手にしなければならない。こうして片鱗を見ることができただけでも僥倖と思わなければ。 「………、五人?」 アサシンとキャスターが消滅したのだから私を除けばマスターは四人のはずだ。五人とはどういうことだと少年に尋ねようと振り向いた瞬間、べちゃりと何かが顔にかかった。思わず目を瞑る。生温かくどろどろとしたそれが私の頬をゆっくりと伝い落ちていく。拭い取ろうと顔に手をやったところで、今度は頭のてっぺんから注がれた。かなりの量だ。粘性のあるそれに耐え切れず膝をついてしまった。 「ぅ、っあ」 「中には入れらんないけど、ちょっとかじるくらいならいいってさ」 よかったね、と少年の声がする。察するにこれはあの泥か。耳にまで入り込んだのか彼の声が良く聞こえない。 「 、 。」 喧噪のように聞き取れない少年の声を聴こうと耳を澄ませると、別の声が聞こえてきた。声はひとつではない。四方八方から送られる囁きはまさしく呪詛だ。禍々しい死の歌が頭に響いて、聞くに堪えないものであるはずなのに、どうしてか心地よさのようなものを覚える。 「アンタは我慢しすぎだよ。嫌なことは嫌だって言やぁいいのに」 ハッと目を開くと少年がいた。座り込んでいる私に合わせてしゃがんでいる少年は、器用に頬杖をつきながら「正直になっちゃえば」と言った。 「人を疎んだり、嫌ったり、呪ったり、傷つけばいいのに、なんなら死ねばいいのにって思うことは別に変なことじゃないさ」 「わ わたしは、そんな」 「時計塔」 私は目を見開く。 「時計塔に留学してた頃、アンタ、すげえ嫌な思いしたことあったろ」 あんな輩死んでしまえばいいのにって思ったことあったろ? 声が出ない。「わたしは、わたしはそんな」「どっかの魔術師」少年が続ける。「変態オヤジだよなぁ、やーらしい顔してさ。よかったね腰撫でられただけで」「ちが、ちがう」「英雄王」、全然いうこと聞かねぇよな、憎たらしいよな。 「捨てちゃえば?」 いつの間に近づいてきたのか、少年が私の肩を抱く。「大丈夫。夢の中だよ。俺しかいないさ、アンタの醜いところを見んのは」 ほら、と手を差し出してくる。顔を覆う指の間から除くと掌の上に泥が見えた。どろりと指の隙間から滴るそれに、私はゆっくりと手を伸ばした。触れた泥は温かく私の指を包みこんでくれる。少年の手から貰い受け、掲げると先のように顔に掛かり落ちてきた。 「ふふ、ハ、あはは」 長く続く血筋を持ちながらそれほどの才もなくただ人を貶すばかりの輩、容姿に魅かれ寄ってきた挙句精液を飲ませろなどと抜かした高名な魔術師、私の望みを切り捨てロクに家に寄りつきもしないサーヴァント、他にも嫌なことはたくさんある、腐るほどある、それを全部この泥が代弁してくれるのだ。なんていい気分だろう。何も気にせず自分の思うまま吐き出すというのはこれほどまでに心地よいものなのか。 泥にまみれ恍惚とした表情のまま呆ける時臣を眺めながら、少年は満足したようにうんうんと頷いた。 ぼんやりと開いていく目蓋から光が差し込んでくる。鳥の囀りを聞きながら、時臣は目覚めた。最近ではあまり感じられないすっきりとした目覚めだった。とてもいい夢を見た時のような。 覚えのない幸福感に満たされながら横たわっていると、コンコンと扉が叩かれた。失礼しますと入室した綺礼はぼんやりと横になったままの時臣をみて少し驚いた。いつもなら着替えもすませているのに。 「やぁ、おはよう」 柔らかな笑みを浮かべた時臣は、どうしたものかと逡巡している綺礼にこんな姿ですまないね、と笑いながら謝る。 「いいえ。お気になさらず」 「なんだかね、とてもいい気分なんだ」 「良い夢でも見られたので?」 「わからない」ゆるりと首を振る。「わからないが、良い気分だ……」 どこか朦朧とした師の様子を訝しみながら、「それは良いことです」と綺礼は心にもないことを言った。
(20120528) |