夢のひと


確かに綺礼は遠坂時臣を殺めたが、それは決して志半ばで冬木を去るように言われたからという憎しみの念ではなく、自らを悦に導くためにそうしただけであって、彼をさらに痛めつけようだとかそんなことは微塵も思ってはいなかった。綺礼にとって時臣は唯一の導師であり、はじめての人でもある。初めて自分が手をかけたのは師と仰ぐ彼だった。油断したところを背後から一突き。豆腐を切るような容易さでもって心臓に穴を開けた以外は、綺礼は時臣に傷を残すことはなかった。
聞き分けの良い弟子が裏切るなどとは夢にも思っていなかったのだろう、時臣は「あ、」と小さく声を上げただけですぐに息絶えてしまった。倒れざまに振り返った時臣はめったにしない表情をしていたので綺礼は嬉しく思った。そうしてそのまま倒れこみ、死んでしまったので、時臣にとっては屈辱ともいえる呆けた顔のまま彼の人生は終わった。三年程度ではあるものの、常に完成された立振る舞いを見続けていた綺礼にとっては新鮮な表情だ。楽しく遊んでいた子どもから急におもちゃを取り上げたらきっとこんな顔をする。綺礼は満足だった。

応接間から寝室のベッドに移した後、肉が腐らぬよう遺体には魔術を施した。ぽかんと口を開けたままの顔をしばらく眺めた綺礼は、顎をかけると唇の隙間を埋めるように持ち上げた。当然だが自発的に唇を引き締めることはできないので僅かばかり開いてしまうが、先ほどに比べると穴は小さくなったのでよしとする。呆けた表情は見物だが、あまり口が開いていると虫などが入って困るのだ。
同じ理由で、繁々と瞳を眺めてからゆっくりと瞼を下ろしてやった。血の気が失せた青白い瞼は剥き身の貝のようにつるりとして、亀裂を埋めるように長い睫毛が生え揃っている。綺礼は、この人はこんな毛でさえも艶があるのだなと感嘆し、哀れに思った。残念なことに磨き抜いた体の隅々はもう二度と動かないのだ。
時臣にはまだしてもらいたいことがあったので、綺礼は服を替えるべくボタンに手をかけた。ダブルブレストのスーツを開き、シャツのボタンをひとつひとつ丁寧に外していく。真っ白なシャツは左胸を中心に赤黒く染まって少し重かった。シャツを左右に開いて露わになった上半身は意外にも引き締まっていたので綺礼は少し驚いた。ワインばかり飲んで出歩くことのなかった人だからもう少し腹に肉がついているものかと思っていたのに、時臣の腹は綺礼のように割れてこそいないものの、筋肉がしっかりとついていた。
血筋の関係もあるのか、時臣の胸にはうっすらと体毛が生えている。少し目線を横にずらすと小さく空いた穴があり、仄暗い空洞を持っていた。背後から一突きに剣先を貫通させたので当然その穴は背中に繋がっているはずだ。綺礼はふと思い立ち、その穴に指を入れてみた。
くちゅりと水音を立てて人差し指が第一関節まで入り、さらに押し込むと第二関節まで入った。これならばすべて入るだろうかと思ったが、突き入れるときに穴がみちみちと広がっていたので、それ以上は先へ進まなかった。綺礼は時臣を蹂躙したいわけではないのだ。引き抜いた指には冷えた血液と少々の肉片がへばりついている。舐めとってみたが、特にどうというわけではなかった。

汚れた服を脱がせてクローゼットから出したシャツを着せると、綺礼は時臣の体を整えて胸の上で両手を組ませた。ジャケットは皺になるので今は着せない。服を着替えてしまえば時臣はただ眠っているようにしか見えなかった。薄く開いた唇に耳を近づければ小さな呼気が聞こえてくるのでは、肩を揺すれば青白い瞼がゆっくりと開くのではと、殺した本人である綺礼がつい思ってしまうほど時臣はいつも通りだった。
「おやすみなさいませ、時臣師」
綺礼は身を屈めると、横たわる時臣に囁いて部屋を後にした。家主が眠った遠坂邸はとても静かだ。

ソファに寝転びながら上機嫌で酒を飲み散らかしていたギルガメッシュは、戻ってきた綺礼が手ぶらであったので時臣はどうしたのかと尋ねた。散らかった瓶を片づけながら「師はおやすみになられた」と言う綺礼に、思わず呆れた顔をする。
「間桐雁夜に会わせるのだろう? 置いてきてどうする」
片づけの手を止めて綺礼はギルガメッシュを見た。そういえばそうだった。そもそも服を替えたのは間桐雁夜に会わせるためだったのに、自分でも驚くほど失念していた。
迎えに行ってくると言って部屋を出た綺礼を見送りながら、迎えに行くとは可笑しな言葉の選び方をするものだなと思ったが、ギルガメッシュはそれ以上気にすることなく片づけられた酒を再び漁り始めた。





「どうかしたのかい、綺礼」
ハッと顔を上げた先で時臣が不思議そうにこちらを見ている。体調でも悪いのかと訊かれて咄嗟にいいえと答えると、時臣は満足したように頷き、ティーカップを口元に運んだ。
花の匂いがする。噎せ返るほどではないが、常に意識の中に入ってくるほどに香るのは此処が庭園の真ん中だからだ。ぽっかりと空いたスペースに小さテーブルと椅子が二脚置かれている。テーブルの上にはアフタヌーンティーが用意されており、三段重ねのティースタンドには果物、スコーン、サンドイッチが順に並んでいた。脇にはジャムやクロテッドクリームもある。向かいの時臣を見ると、ちょうどスコーンにクロテッドクリームを塗り広げているところだった。
「遠慮せずに食べなさい」
「はい」と答えたものの別段腹は減っていない。少し考えて、綺礼は上段から苺を取った。噛みしめるとクチクチと果肉が潰れて甘酸っぱい風味が広がる。普通の苺だ。飛びぬけて美味というわけでもないのだが、気づくと綺礼はティースタンドに手を伸ばしもう一粒取っていた。気に入ったのかい? と訊かれ、二粒目を咀嚼しながら頷くとそれはよかったと時臣は嬉しそうな顔をした。

「私の心臓だからね。不味いと言われたらどうしてやろうかと思ったよ」




教会の床に倒れた時臣を起こしながら、綺礼は今朝の夢を思い出す。綺礼は彼の心臓を食べた。噛みしめ、舌の上で転がし、嚥下した。ひとつでは足りずもうひとつ食べた。苺はその二つだけだったろうか、まだ皿に乗っていただろうか。若しくはここに隠れているのかと、シャツの合わせ目から無理やり手を差し込んで左胸の穴に指を入れてみた。第二関節を越えたあたりで穴の広がる感触がしたが綺礼は構わず指を進め、とうとう付け根まで差し込んだものの、それらしきものは見当たらなかった。引き抜いた指にはもう血も肉片もついていない。それを残念に思いながら綺礼は指を舐めた。




「綺礼はああいうのが好きなのかい」
紅茶を飲みながら時臣が尋ねてくる。『ああいうの』とはなんだろうかと考え込む綺礼に「ほら、教会の」と声が続く。綺礼は合点がいき、はいと答えた。時臣の死体を使った劇のことだ。
「悪い子だね、綺礼。私で遊ぶなんて」
わるいこ、と言われて綺礼はぞくりと鳥肌が立った。それは誰からも掛けられることのなかった言葉であり、綺礼が一番求めていた言葉だった。
「私は、わるいこですか」
「うん。悪い子だ。とても悪い子だよ」
言葉とは裏腹に時臣の顔はとても穏やかなもので、サンドイッチに手を伸ばしながら話している。レタスとハムが挟まれたそれを一口齧り、嚥下してまた「悪い子だ」と言う。綺礼は急かされるように口を開いた。
「では、わが師よ、私を叱ってくださるのですか」
「叱ってほしいのか?」
半分ほどになったサンドイッチを皿に置いた時臣は逆に訪ねた。綺礼は高揚している。顔にまで出ていたのか、時臣は小さく笑った。
「では綺礼。罰として、それを食べてはいけないよ」
指差されたティースタンドの上には一粒の苺がある。銀のプレートに一粒だけ乗っているそれは、よく見ると苺ほどの大きさのルビーだった。
「これがなくなったら時臣師はどうなりますか」
時臣は笑って「さぁ?」と言った。




聖杯戦争の事後処理に追われる中、綺礼は何度か時臣に会いたいと思ったが彼が現れることはなかったので、仕方がなく自室に寝かせている方の時臣に会いに行き、心臓に指を差し込んだり、身形を整えたりした。それをみたギルガメッシュに人形遊びは楽しいかとニヤニヤ言われ、泥人形と遊んだ経験のあるお前ならわかるだろうと返して大喧嘩になったりもした。
時臣が次に現れたのは時計塔に発つ前日のことだった。
「明日は師を連れてイギリスへ向かいます」
「時計塔かね」
「はい」
「そういえば、綺礼は時計塔に行ったことはあるのかな?」
そんな調子で会話は進み、時臣はスコーンを食べ、綺礼もサンドイッチを食べた。ティースタンドの上段にはオレンジやレモンに混ざって一粒の苺が置かれている。
「おや、綺礼」
不意に時臣が右腕を伸ばした。顔に向かってくる手に少し身構えていると、手は綺礼の顔を越えて、側頭部に触れた後戻っていった。「風で飛ばされたのかな」という時臣の指には一枚の葉が摘まれている。そこで初めて、綺礼はまだ時臣の甲に令呪が残っていることに気付いた。
手の甲を凝視する綺礼に気付いたのか、葉を離した時臣は、ああ、これか、と思い出したような声を出した。時臣は、まだ私は死んでいないから令呪が残っているのだというようなことを言って紅茶を飲む。
「もうマスターではないのにですか?」
「もうマスターではないがね」
残っているものはしょうがないだろうと肩を竦める時臣に、死んでいないとはどういうことだと少し遅れて綺礼は思った。「貴方は私が殺したのに」と声には出さないものの、目がそう言っていたので、時臣はコツコツと銀のプレートを爪で叩いた。プレートの上には最後の苺が乗っている。
「ではこれを食べてみるといい」
驚くことに、時臣は頬杖をつきながらこちらを見ていた。彼が食事中のテーブルに肘をつくなんてありえないことだ。不審な目を向ける綺礼に肩を竦めて「最近の君があんまり悪い子だから、少し移ってしまったようだ」と姿勢を正した時臣は、プレートから苺を手に取ると此処へ来なさいと綺礼を呼んだ。立ち上がり、隣にやってきた綺礼に膝をつかせて、微笑みながら指を出す。
「食べなさい」
唇に押し付けられた苺は柔らかい。ドクドクと脈打つ拍動が唇を震わせる。甘酸っぱい香りが鼻に届く癖に、ちろ、と舌で触れてみると鉄の味がした。綺礼は押し付けられた手を掴むと、口から一度離し、苺ではなく手の甲を自分の唇に寄せた。赤い印に舌を這わせ、噛みつき、吸い上げると、「あ、」と小さく声が漏れた。
「いけない子だな、綺礼」
時臣は微笑んでいる。顔を上げた綺礼は、左胸から覗く銀色の剣先に気付き、そして時臣の背後に人影をみつけた。彼を刺した言峰綺礼は朗らかな笑みを浮かべていた。





時臣の遺体を丁寧に棺に納め、スーツケースにいくつかの荷物を詰め込む綺礼に「いよいよ別れの時だな」とギルガメッシュが言う。かわいそうにと白々しい声を出す男に、まだ別れるわけではないと返して綺礼はスーツケースに鍵をかけた。
「魔術刻印を摘出しに行くだけだ。葬儀はまだ少し先になる」
「なんだ」
そうなのか、とつまらなそうに呟いたギルガメッシュは、棺に近づくと時臣の瞼を持ち上げた。「おい、乱暴はするなよ」綺礼の言葉に適当な返事をして棺の中を眺める。しばらく眺めた後、瞼をおろし、形の良い鼻をつまんだ。
「目が少し濁っているぞ。王の最後の謁見であるというのに」
少々残念がっているギルガメッシュを見ながら、散々つまらないと言っていたくせに都合のいい奴だなと綺礼は呆れた。どうやら英雄王は師の瞳を気に入っていたらしい。
自分が瞳をもらったと聞いたらきっと面白くないに違いないと思った綺礼は次に会ったとき時臣に強請ってみようかとふと思ったものの、あまり貰いすぎるのは贅沢だと考え、やめた。

綺礼は葬儀の前日になったら彼の心臓を食べようと思っている。




(20120902)