ピンポンと鳴ったチャイムを聞いた勝己は、特になにもせずにいた。
キッチンでは母親が夕食の支度をしている。階下から香る晩餐の知らせに先程降りてきたばかりの勝己はソファに座ってテレビを見ていた。顔を向けているだけで頭を使っているわけではない。勝己の頭は常に全回転だが、つかの間空いた隙間に喧しいだけのテレビ番組を眺めて茫洋とするのも嫌いではなかった。
果たして聞こえているか定かではないが、玄関向こうの来訪者に向けて返事をした母は、アンタちょっと出て、と言う。まぁそうなるだろうなと思っていたので勝己も素直に立ち上がった。予想はしていてもやはり面倒なものは面倒なので、ペタペタとフローリングを行く足取りは億劫そのものである。
どうせ宅配便だろうと思い、ドアを開ける前に玄関脇の引き出しから判子を取り出しておいた。一度鳴らしたきり行儀よくしている業者が持っているであろう荷物を受け取る算段を立てていた勝己の視線は、自然下方へと向かっている。玄関を開ければ荷物があると思っていたのに、視界に飛び込んできたのはタッパーだった。
勝己の頭がちゃんと回転していれば、タッパーの下に真っ赤なスニーカーを見つけて、何か言われる前に扉を閉めて誰かのイタズラだったと来訪をなかったことにできたであろうに、いかんせんぼんやりとしていたものだからわざわざ話しかける間を与えてしまった。
「あ、えっと……こんばんは、かっちゃん」
「…………」
今からでも遅くはないかとドアを引き戻し始めた勝己に、出久が慌てて言う。
「あっあのね! これっ親戚から送られてきたんだけど、」
「そうかよ」
「ああああのね、いっぱいあるから、かっちゃんちに持ってきなさいってお母さんが!」
構わず閉めようとした扉は数センチ手前で止まった。目を落とした先には忌々しい真っ赤なそれが挟まっている。いい度胸してるじゃねえか。この幼馴染は雄英に入ってからというもの生意気になっている。
怯んだ顔は見せれど退く気配のない出久は、睨みつけてくる勝己にへらりと笑った。
「さくらんぼ、おすそ分けにぃいイッたァ!」
つま先を思い切り踏みつぶし、出久が思わず足を引いた瞬間に音を立てて扉を閉める。「用は済んだろ。とっとと帰れクソナード」かすめ取ったタッパーを弄びながら扉越しに言ってやるとめげずに返事が飛んできた。
「すっごくおいしかったよ。おばさんたちと食べてね」
「いーからさっさと帰れっつーの」
「誰に帰れって?」
ゴチン、と拳骨が降ってくるのと後ろから声をかけられたのは同時だった。つむじ目がけて落とされた遠慮のない拳はさすがの勝己といえど堪える。頭を押さえて唸る息子を尻目に玄関を開けた母親は、突然開いた扉に驚いている出久に何事かを話しかけ、あれよあれよという間に家の中へ招き入れてしまった。
ごめんねぇうちのバカ息子が。いいいえいえそんなそんな。にしてもほんと久し振りねぇ出久くん、元気? あっはい元気です、母さんも、おばさんによろしくって言ってました。
軽やかに話す二人はリビングに消えていった。開けっぱなしのドアから聞こえる、ついでだから夕食も食べていけばいいという母親の声。一体なんのついでだというのか。鈍痛の引かない頭をさすりながら舌打ちをした勝己は、自分を呼ぶ声にまたひとつ舌打ちをしてリビングへ向かった。
〇
四人掛けのダイニングテーブルは必ず一席余る。いつもなら空席は勝己の隣であるのだが、今日は母親の隣が空いていた。勝己の左側では肩身をすぼめながら出久が夕食を食べている。父は昨日から出張で明日の夜までいない。
割合おっとりとしている出久の母に比べて、勝己の母は快活だ。たくさん食べなさいと容赦なく皿に盛りながら出久にあれこれと話しかける。今夜のおかずはからあげだ。山と積まれた隣の皿を見て、コイツがそんなに食えるものかと勝己は呆れた。どうやら母は幼馴染みの胃袋を息子と同じ尺度で考えているらしい。
勝己は昔からよく食べる方だったが、出久はそうではなかった。小食というわけでもないけれど、小学校でも中学でも、我先にとおかわりを希望する男子たちの中に出久の姿を見たことがない。
会話に混ざるでもなく話を聞いていた勝己は、受皿が空になっていることに気付いた。中央に置かれたからあげの山に箸を伸ばすと、肉を挟む直前で横から伸びてきたそれにカツンとぶつかる。
顔を向けると同じようにこちらを見た出久と目が合う。一瞬のことだ。すぐに勝己は顔を戻して当然のように出久の箸を押し退けたし、出久も別の場所から肉を取った。お互い何を言うでもない、互いの対応が当たり前だという風ですらある。勝己は譲らず、出久は手を引く。その昔、まだ二人が日々のおやつを共に食すような関係であったころから変わっていない。
母のペースに慣れてきたのか、幾分流暢に話しながら出久はからあげを口に運ぶ。仕方がないから残した分は食べてやろうと思っていたのに、終わってみれば隣の皿の上には衣の欠片ひとつ残らなかった。
〇
アンタたち一緒に入っちゃいなさいよという母の提案を無視して、この期に及んでうだうだと遠慮をみせる出久を蹴り飛ばし洗面所へ押し込んだ勝己は、尻をさすりながら振り向いた顔に言った。
「10分で出なかったら殺す」
ごちそうさまでしたと帰ろうとする出久に、せっかくだから泊まっていけばいいじゃないと言い出した母親は、慌てる出久や息子の猛反発を歯牙にもかけずさっさと緑谷家に連絡を取ってしまった。
お風呂洗いを命令された勝己が使い古しのスポンジにあらん限りの怒りを込めてリビングに戻ると、二人は呑気にさくらんぼなぞを食っていた。忌々しい現状を作り出した元凶。
憮然としてテーブルを見る勝己に気付いた出久が「あ、これかっちゃんの分」と席に置いた小皿に手を寄せる。夕食の時同様、隣に座ってさくらんぼを食べるのだと疑っていない様子がありありと見て取れる。そうはいくか。勝己は皿を奪い取りテレビの前のソファにふんぞり返った。後方で母の小言が聞こえるが無視だ。
水で洗われた赤い実は艶やかに光っていた。コロコロと転がっている五粒と、双子が二房。ちらりと見た出久の皿に乗っていた数より一房多い。いらん気ィ回しやがってクソナードめ。勝己は持ち上げた茎に揺れる二粒の実をまとめて口に入れた。美味いのがまた腹立たしかった。
食後のデザートの後、出久が大慌てで風呂に入っている間、勝己は渋々、大層渋々ながら、出久のために布団を敷いていた。
二階には勝己の部屋の他に使っていない部屋がふたつもあるのだからどちらかに転がしておけばいいものを「あんなとこに出久くんを寝かせられるわけないでしょう」と母。確かに随分と長い間物置代わりになっているので雑然としているし埃っぽい気もする。(ちゃんと掃除機はかけていると主張された)
「なんのために一番広い部屋をアンタにあげたと思ってんの」
「少なくともこのためじゃねーよ」
いいからさっさと準備してこいと廊下に放り出されてしまえばもう勝ち目はない。一番古い布団にしてやろうと耳っちいことを考えながら、苦し紛れに足音を立てて階段を上った。
そのきっかり10分後、控えめなノックが二回。無視していると、再度ノック。それでも無視していると、しばらくしてから「かっちゃん……」と情けない声が聞こえてきたので、勝己は読んでいた漫画を片づけ、床に敷いた布団をこれでもかと踏みしめ歩きながらドアを開けた。奇しくも、出久が三度目のノックチャレンジをしようと拳を振り上げた時だった。
外開きのドアであればこんな悲劇は起こらなかっただろう。勝己の額をノックしてしまった出久はこの世の終わりのような顔で固まった。
「………………わ、わざとじゃない、よ?」
と言ってから、あぁ言わなきゃよかったと出久は己の軽率さを後悔した。勝己は黙って出久を見ている。何も言わないのが何よりも恐ろしい。額にコツンと当たっている指を下げることすら躊躇われる空気を裂いたのは、この家で一番強い女性の声だった。
早く風呂に入れ、というような言葉が階下から飛んでくる。今まさに風呂に入ったばかりだというのにダラダラと冷や汗を流す出久の横を通り抜けて、無言のまま勝己は階段を降りていく。
上から覗き見た姿が階下に付き、完全に見えなくなったのを確認してから出久は大きく息を吐いた。
首から下げたタオルで髪の水気を取りながら出久は部屋を見渡した。随分と懐かしい気がする。ここに来たのは何年振りだろうか。
小学校三年生くらいまでは、勝己の家に遊びに来ていた。となると約六年ぶりか。変わったものといえば机くらいで、それでも場所は変わっていない。出久は未だに小学校入学祝いに買ってもらった学習机を使っているが、勝己は買い換えたらしい。
入口の正面奥に鎮座するベッドに平行するように布団は敷かれていた。疎ましがってもっと離れた場所にすると思っていたが、よくよく考えてみれば机と本棚と色々置かれている部屋で、出入に邪魔じゃない場所といえばココくらいだ。
「かっちゃん落ちてきたら死ぬなコレ……」
寝相が良いことを祈るばかりである。少なくとも出久の記憶ではそんなにひどいものではなかったはずだ。
髪までしっかり乾かしてきた勝己が部屋に戻った時、出久はぺしゃんこの布団に横たわっていた。首にはタオルが巻きついたままだ。さてはコイツ生乾きだな? とボサボサの髪に手を突っ込むと、根元の部分が湿っていた。しまい込んでいた枕カバーがあまりに湿気っていたので適当にタオルを巻いてカバー代わりにしたのだが、正解だったようだ。
大方うたた寝が本域になってしまったのだろうが、自分より先に眠っているのがなんとなくムカついたので、投げ出されているふくらはぎを蹴った。
「おら、起きろデク」
「んぇ……」
「テメー歯も磨かないで寝る気か?」
「うん……」
「うんじゃねえ」
起きろ、と腕を引っ張り無理やり持ち上げる。うぇーと呻く姿は、一時期SNSに出回った海から引きずり出されたアザラシに似ていた。こんなに寝汚かっただろうかと勝己は少し考えたが、その記憶がもう随分と古いものだったので、意味がないなと早々にやめた。
出久の着ているTシャツは勝己のものだし、なんなら下着もハーフパンツも勝己のものだ。それに気が付いたのは洗面所で服を脱いでいる時で、尋ねた母はあっけらかんと「だって他に着るのないでしょ」と言った。おでこノックチャレンジ事件がなければ部屋の入り口でひん剥いていただろう。
特別気に入っているわけではない服の袖から伸びる腕は、勝己が知っている腕とは違う。それは古い記憶ではなくほんの一年前のものだ。出久の腕は一回り細く、全体的になよっちいいかにも文化系の体躯だったのに、雄英合格が決まり校舎裏に呼び出した学ランの腕は確かに力強いものだった。
思いもよらぬ反抗を受けた記憶が蘇り、同時に怒りも思い出した勝己は持ち上げていた腕をパッと離すと、したたかに打ち付けた顎を押さえる出久の背中を踏みつけた。
「ぁイタッ」
「俺は寝る。出るとき電気消してけ」
「はい……」
「戻ってきて電気つけたら殺すからな」
「んー」
まだ少し寝ぼけてるのか、ふらついた足取りで部屋を出た出久は「あっ」と呟いて後ろ向きに戻ってくる。
「おやすみかっちゃん」
返事をせず横になる。
パチンと音がして真っ暗になった。
〇
小さな声だった。一秒にも満たず溶けた吐息交じりのクシャミで勝己の目が覚めたのは、ちょうど眠りの浅い頃だったのだろう。
月明かりに照らされた部屋には、いつもは存在しないものがある。勝己に背を向けている出久は確かに眠っているようだが、その体は心なしか丸まっていた。
勝己は暑がりだ。個性をより生かすため物心ついた頃から辛味を摂取してきたためか、或いは元来の基礎代謝が良いのか、夏場の夜は空調をきかせなければ寝苦しくて堪らない。平均気温が上昇を続ける昨今、よほど涼しい夜以外は28℃程度に設定したまま眠っている。それでも暑苦しいと感じるくらいだが、出久はそうではないらしい。そういえばタオルケットもなにも出していなかったな、とぼんやり考えていると眼下の体がピクリと動いた。
おもむろに身体を起こした出久は、数秒かけてゆっくりと立ち上がると、のろのろと出入り口に向かった。ドアを開けて、そのまま部屋を出る。ぺたぺた聞こえる足音は遠ざかり、ドアを開閉する音、暫くの後、流水音。
ぺたぺたとフローリングを歩く音がまた近づいて来る頃、勝己は入口に背を向けて再び寝入ろうとしていた。戻ってきた出久は部屋の中に入り、数歩進んだところではたと足を止めたようだった。ドアを閉め忘れたのだろう。見えないので分からないが、起きた時開けっ放しになっていたらまた蹴り飛ばしてやるとまどろみながら考えていた勝己は、急に身を包んだ衝撃で一気に目が覚めた。
スプリングが跳ねて身体が一瞬浮く。背中が温かい。バッと体を反転させた勝己の目の前に飛び込んできたのは幼馴染の呆けた寝顔だった。
ほとんど倒れ込むように入ってきたおかげで勝己の左半身はところどころ地味に痛い。それはコイツも同じだろうに、すよすよと寝息を立てているので、勝己は本当に腹が立った。
肩を押しやるとむずがるように抵抗してくる。眠っているくせにやたら力が強い。眠っているからこそ遠慮会釈もないのか。
この野郎……と勝己が本腰入れて突き落とそうと右手を閉じて開いて準備している間、出久は健やかに眠っている。思えば小学校低学年の頃は、遊び疲れて雑魚寝などしていた。風邪をひかないようにとかけられたブランケットは大抵寝てる間に勝己が取り上げているらしく、目覚めたら出久がぴったり寄り添っていることもしばしばあった。小さな体を丸めて自分にくっついている時の出久は大人しいので、勝己は嫌いではなかった。なにせ眠って動かないので、鈍くさく足を引っ張ることも生意気を言うこともない。
心なし身体を縮こまらせて、出久は勝己の隣で眠っている。鼻腔から出入りする寝息が勝己の顔を撫でる。
ふと、出久の左手が動いた。
顔の横に置いていた勝己の左手に触れたのは偶然だった。その手がぎゅうと握られたのも原始反射のようなものだ。出久は眠っている。勝己は分かっている。鈍くさいデクがこうも器用に狸根入りなど出来るわけがない。
薄く開いた唇が微かに動いた。
急に身を包んだ衝撃で、出久は一気に目が覚めた。節々からくる鈍痛の意味が分からずベッドを仰ぐと、横向きのまま中途半端に足を持ち上げた体勢の勝己が言った。
「おやすみ」
最初からこうすればよかった。
なんとも無駄な時間を過ごしたと、数分前の自分を罵り勝己は眠りについた。
20150816
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