思えば
緑谷出久という少年は常に勝己の傍にいて、時に隣、時に後ろ、時に視界の端、時に真正面からその目を向けていたのだった。彼の横顔、彼の足音、彼の気配、彼の真っ直ぐな瞳を受けながら、その度に勝己は優越感や苛立ちを感じていた。
家が近くて幼稚園の頃から遊んでいた奴らなんてたくさんいたし、それこそ中学を卒業するまでつるんでいた者だっているというのに、どういうわけだか出久だけが『爆豪の幼馴染』という枠に収まっている。かつて、度の過ぎた勝己の行いに幼馴染みなんじゃねえのと少し呆れながら、窘めるように言った男はまさしく出久をその枠に収めていた。その隣にいた指の長い男も幼稚園の頃から勝己と一緒にいるのだが、彼は自分がその枠に入るとは微塵も思っていないらしく、まるで他人事のような顔をしてさすがにやりすぎだと笑いながら相槌を打っていた。実際に勝己も幼馴染みと言われて一番に思い浮かぶのが出久の顔であるので否定はしない。いつも自信のないような顔つきで、中傷の言葉をかけてもおどおどするばかりでロクに言い返しもしない。そのくせ気づいたら傍にいて、飽きもせずに昔の愛称で呼んでくる者がいるとしたら、それはもう『幼馴染み』としか言いようがないのだ。
かっちゃんという呼び名は誰が初めに言い出したのか。記憶力の良い勝己は覚えていた。緑谷出久である。
いっとう初めの出会った頃はカツキくんと呼んでいたのだが、ある日用事があって幼稚園の迎えが遅くなるという話を聞いた勝己の母が、息子と一緒に出久を連れ帰った。おやつを食べながら並んで子供向けアニメを見ていると、かつやだかかつのりだか、とにかくそんな名前の登場人物がいて仲間からかっちゃんと呼ばれていたのだ。
「カツキくんもかっちゃんだね」
口の周りを汚してニコニコ笑う出久に適当な返事をしながら、こいつはおやつもまともに食えねーのかと思った覚えがある。その数時間後、母が迎えに来て帰る際「かっちゃんバイバイ」と言ったのが始まりであった。
呼び名はすぐに広まり、それから随分長い間友人たちからもかっちゃんと呼ばれていたが、ランドセルを背負わなくなる頃にはほとんどなくなった。それもそうだ。まるで子どもっぽい愛称が似合うならまだしもその頃にはもう爆豪勝己という人間性は周知のことであり、かっちゃんなどと可愛らしい少年ではないことは誰もが知っていた。
そうしておかしなことに、それを誰より分かっているはずの出久だけがいつまでも彼をかっちゃんと呼び続けている。
望むと望まないとに関わらず、日頃から何かと目立っている勝己を面白く思わない人間が出久に絡んでくることが間々あった。彼らも例によって出久の事を爆豪の幼馴染みだと思っているので、世間一般の幼馴染みらしく仲が良いと考えているらしい。実際はまるでそんなことはないのだからはっきり言えばいいものを、腰を抜かしてあわあわ逃げるから面白がってさらに捕まる。勝己は一度だけその場面を見たことがあった。
中学1年の頃だろうか。だらしなく学ランを着崩した、いかにも頭の悪そうな上級生が数人で出久を囲んでいた。半年前まで小学生だった出久は成長を見越して買い与えられたサイズの合わない制服に埋もれるように縮こまり、中身の詰まったリュックを両手に抱えておどおどと上級生を見上げていた。
1年生の教室が並ぶ廊下の隅で、追い詰められたかわいそうな同級生を助けようと割って入る者はいなかった。遠巻きに眺めたりそそくさとその場を去る。それは軽薄だが賢明な判断だ。出久の様に、自分に利がないのにところ構わずいじめられっ子を助けに入る方がおかしい。
やんわりと満ちる不穏な空気は廊下を辿り、遠くにいる勝己のところまで届いていた。教室に戻ろうと歩いていた先の行き止まりに場違いな人影を見つけて少し眉を寄せるが、自分には関係なさそうなのでそのまま無視するつもりだった。結局それが出来なかったのは隙間から緑色を見つけてしまったからだ。
彼らは爆豪勝己の弱みを聞きだそうとしていた。知らないです……とか細く答えるも、ひとつくらい何かあるだろうと詰め寄られる。背後まで近づいている当の本人にまったく気づく様子のない彼らがさらに問い詰めると、怯えた顔でリュックを抱きしめた出久は「かっちゃんに、弱みとかないです」と言った。その声が態度に反して確固たるものだったので一瞬場の空気が止まった。出久が勝己を見つけたのはその時だ。あ、と呟いた声に振り向いた上級生は、数分後には煤けた制服で廊下を走っていた。尻尾を巻いて逃げる姿は勝己には見慣れた光景だったので、貴重な休み時間を無駄にしたという感想しかない。今度こそ教室に戻ろうと踵を返した勝己の目にはもはや出久の姿は入っていなかった。
「かっちゃん」
姿の見えない声は名前を呼び、勝己の背中を見ている。豆粒くらいの大きさしかない頃から傍にいるのだ。見られていることくらい分かる。そうしてきっと次に言うのだ。
「ありがとう」
自分がその言葉を口にする必要が全くないことを出久は分かっていない。うるせぇと言う勝己の言葉を照れ隠しか何かだと思っている様子はいっそ不気味ですらあった。
体育祭で自分の前を行く出久を見た時、勝己はふと彼の背中を初めて見ることに気が付いた。すなわち自分が追いかける側にいるという意味である。
後ろからやってきた出久は勝己を飛び越え、追い越し、先を行こうとしている。そうして背中を見た勝己は急に焦った。次に沸いた怒りはそのまま衝動となり焦りを消したので、勝己は自分が焦っていたことすら忘れた。ただ妙な不安だけが残った。
出久はどんどん先へ進んでいる。かつて見た勝己の動きを真似して、それを取り込んで糧としている。ヒーローに近づいている。勝己が踏みつけ馬鹿にしていた夢物語はもうすっかり輪郭を持っているのだ。
道端の石っころ。なんにもできないデクの棒。すぐ泣くし、ブツブツうるさい。いつまでも夢ばかり見てひとりじゃなんにもできない。それが緑谷出久という人間で、勝己の幼馴染みであった筈なのだ。
それが例え誰の声であれ、かっちゃん、という音の響きが聞こえたのなら勝己の頭に浮かぶのは幼馴染みしかいない。よわっちい。鈍くさい。自分で詰めたランドセルの重さで転ぶ。犬に吠えられて泣きそうになる。学ランは結局卒業まで少し大きいままだった。
彼と目を合わせるには勝己が振り返ってやらなければならないのに最近はもうずっと後ろを向いていない。勝己の前に見知らぬ背中が立っているのでそれどころではないのだ。見知らぬ背中は偶に振り向くがその顔はよく見えず、ただかっちゃんと呼ぶ声ばかりするので勝己は気味が悪くて仕方なかった。
幼馴染みは後ろにいるのに、それは前から聞こえてくるので。
20151012 ♪錯乱
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