眠らせてよ流星群


都会の空は汚い。とまでは言わないが、星が綺麗に見えないことは確かだ。上京してからというもの永四郎はまともに星を見たためしがない。よく晴れた日の夜などは月も出ているし、一番星も見えるのでいることにはいるのだろうが、地上の星が明るすぎて天上の彼らは肩身を狭くしているようだった。高層ビルや夜景の綺麗なレストランなぞに行かずとも大抵の場所からは散らばるネオンが見える。安いビジネスホテルからだって充分にそれは見えた。
黄色、赤、青、緑、紫にピンク、と色づいているのはだいたい場所が決まっているので色々と分かりやすい。紫だのピンクだのが栄える場所は歓楽街だ。「なに、あそこ行きてぇの」背中に伸し掛かってきた丸井は、今から行くか? などと言ってくるので永四郎はため息を吐いた。
「丸井クンはシャワーを浴びるためにココに来たんですかねぇ」
「わーかってるって。冗談だろぃ」
後ろから回された腕がするすると首に巻き付いてくる。服越しに、丸井の体が火照っているのがよくわかった。ぴちゃりと耳に水気を感じたので舐められたのかと思ったが、どうやら髪から垂れた水滴らしい。
「ちゃんと拭きなさいよ」
とは言うものの唇を重ねてしまえばもうそんなことはどうでもよくなってしまう。丸井もそれをわかっているので、いつもこうしてロクに髪を拭かないままやって来る。神経質な永四郎だが「まぁこれくらいは許してくれるだろう」という程度を丸井はすっかり覚えていた。それがまさしくその通りなのでなんとも小憎たらしいが、悪戯好きのする顔に悪い気はせず、結局はいつも許してしまうのだった。永四郎はこういう顔に弱い。幼い頃からそういう顔をする男が近くにいたから変なクセがついてしまったのだ。



いつも騒がしい男だった。楽しいこと、賑やかなことが大好きで、文化祭や体育祭ではいつも実行委員か何かをしていた。かといって何も考えていない馬鹿かというと少し違うというのがまた面倒なところであり、彼の素敵なところだと永四郎は思っていた。周りの雰囲気に飲まれやすいくせに一旦スイッチが入ると恐ろしく集中する、その顔が好きだった。
公園にある象のオブジェに上手く登れないとぴぃぴぃ泣いた甲斐を引っ張り上げてやったのは永四郎だし、可愛がっていた野良犬が死んだときは慰めてやった。中学に上がり同じクラスになった甲斐にラケットを与えたのは永四郎で、テニスや技を教えたのも永四郎だ。追試や補習のたびに泣きついてくるのを諌めて勉強をみてやったり、度を越えた寄り道から連れ戻すのも永四郎の役目だった。甲斐の人生の半分程度は永四郎が関わっているのと同じように、永四郎の人生の半分程度もまた甲斐裕次郎という幼馴染が関わっていたのだけども、彼に愛だの恋だのを教えたのは永四郎ではなかった。
窓際の彼女と平古場は呼んでいた。同じクラスなんだから当然名前くらい知っているだろうに、誰に配慮してなのか平古場は相手の事を『窓際の彼女』としか言わなかった。永四郎もそれ以上聞き出そうとはしなかったので分かっていたのは窓際の席にいるということくらいだったが、顔立ちも雰囲気も髪型も性格も知らない窓際の彼女が甲斐に恋を教えたということは知っていた。

付き合っていると聞かされたのはそれから随分と後のことだ。中学を卒業して高校生になり、さらに一年経って、そろそろ将来のことを真面目に考え始める頃に改めて聞かされた。
永四郎と甲斐は別の高校に通ってはいるものの家は変わらず近いので特別何かが変わったわけでもない。寄り道癖は多少マシになったがこの幼馴染はいつまでたっても連絡を入れるということを覚えないので、その日も永四郎は甲斐を迎えに行くべく夜道を歩いていた。
徒歩で行ける距離なんてたかが知れているので、中学に上がるころには甲斐の寄り道スポットはだいたい決まっていた。それは今も変わらないので永四郎は順番にまわって甲斐を見つけるだけだ。どこにいるかは気分次第なのでこればかりは足で探すしかないのだが。
象の公園。秘密基地の跡地。サトウキビ畑。内地を回っても甲斐はいなかったので、次は海辺に行ってみようかと永四郎は足を向けた。

海が見えるお気に入りの場所もいくつかある。一番近い海辺から探そうと砂浜を歩いているとこじんまりとした人影が見えた。近づくと、甲斐くんと名前を呼ぶ前に向こうから振り向いた。
「そろそろちゅーさ頃やー思てたさぁ」
「なら自分で帰ってきなさいよ」
「やしがよ、そしたら探しん来ちゃ永四郎がひとりになるやが?」
ふざけたことを言うもんだと永四郎は呆れた。誰のせいだと思っているのか。「キミがもっと早く帰ってきてくれればいいんですけどね」と言ってもへらへらした笑いで返されるので、もう考えるのをやめた。
その日はよく晴れていたので夜空が綺麗だった。顔をあげた先には地平線を境に星空と暗闇が広がっていた。空はうるさいくらいに星が詰まっているのに真下の海はせいぜい光が反射している程度で、黒い水がたぷたぷと揺れている。間にあるのはたった一本の線だというのにこの違いはなんだというのか。「永四郎」と甲斐が呼ぶので、永四郎は隣に顔を向けた。甲斐は少し上に顔を向けていた。星を見ているのだ。
「わんね、今付き合ってる子がいるんさぁ」
「知ってるよ」と答えようとしてやめた。甲斐が話を続ける。内容は、お相手の『窓際の彼女』についてだった。中三の時に同じクラスになったことがきっかけでよく話すようになり、卒業式の日に告白された。彼女は少し遠くの高校に通っているからあまり会えないけどそれからずっと付き合いを続けている。甲斐の話は概ねこのような内容で、途中でいろんな思い出話を挟んでくるという感じだ。永四郎は、甲斐が何故そんな話を自分にするのか分からなかった。それは今話さなければいけないようなことなのか。こんな夜分に、海まで、わざわざ探しにきてくれた相手に。甲斐くん。俺にその子との思い出を話してどうするの。
いくら沖縄といえど初夏の夜はまだ冷える。海辺ならなおさらだ。たいして時間はかからないだろうと適当な薄着で出てきたものだから永四郎の身体はすっかり冷えていた。甲斐は寒くないのだろうか。
目の前の海は暗く揺れている。たぷりたぷりと波に合わせて水面の光が揺れるのを眺めながら、早く帰りたいなぁと思った。もう永四郎は甲斐の話をあまり聞いていなかったので、結婚だのなんだのという言葉にもたいして驚かなかった。あぁそうなの。ところで甲斐くん結婚の意味わかってる? 心配になったものの、さすがの甲斐でもそれくらいはわかるかと思い直した。

甲斐くん、キミ、結婚したいの。

そうなの、と思った永四郎はやはり、甲斐が何故そんな話を自分にするのか分からなかったので、茫洋と海を眺めながら話半分に聴いていた。





「こういう時に考えごとは野暮だぜ、キテレツ」
瞼を開くと丸井が少し不機嫌そうな顔をしていた。「随分余裕じゃん」拗ねたように尖った唇がかわいいな、と思ったらそのまま声に出てしまった。
「かわいいね」
「馬鹿にしてんの?」
「違いますよ。ほんとにかわいいなって」
笑いながら言っても説得力はなかったらしく首筋に噛みつかれてしまったが、たいして痛くもないし『こういう時』に噛まれても興奮するだけだ。無粋なことをしてしまったのは地上の星を見たせいだろうか。沖縄の星はもっと美しいよと思いながらも、頭の中に浮かぶのは地上の下卑た星と真っ暗な海だった。
結局あの後は普通に家に帰って、それから何があると言うわけでもなく卒業を迎えた。あの夜からそれほど経たない内に永四郎はもう受験勉強を始めていたので甲斐と遊ぶ回数は減り、甲斐も甲斐であまり家に寄らなくなった。気を遣っていたのか、それとも遠距離の彼女に会いに行っていたのかはわからないが、そんなわけで寄り道の探索に呼ばれることもいつのまにかなくなっていた。永四郎は大学進学のために上京したが甲斐は地元に残ったのでもう随分の間音沙汰がない。
こちらに出て来たばかりの頃は慣れない環境に苦労していたものの二年も過ごせばお手の物だ。大学生活も体に馴染んできたし、こうして最中に考えことができる程度には余裕も持っている。
今住んでいる家を一緒に探してくれたのは丸井だ。U-17の合宿をきっかけに、丸井とはずっと連絡を取り合っていた。住んでいる所があまりにも離れすぎているので合宿以来面と向かって会ってはいなかったが、上京して大学に通うのだと話した時に、俺が一緒に探してやるよと言われたのだ。
「土地勘あるやつがいた方がいいトコ見つかんだろぃ」
との言葉にそれもそうだと二つ返事をして、その通り中々の物件を決めることができた夜、始めてそういうことをしたのは丸井の部屋だった。
ファミレスで夕食を取っているときに丸井も大学からは一人暮らしを始めるのだという話は聞いていた。もう入居できるので少しずつ荷物を運んでいる最中だという。立海大に進学するのにわざわざ実家を出る必要はないのではないかと尋ねると、弟たちがいるとできないことが色々あるのだと丸井は笑った。その数時間後に、テレビと冷蔵庫の他にはベッドしかない部屋で丸井は永四郎の首に噛みついたのだ。


永四郎はまたぼんやりと甲斐のことを思い出す。窓際の彼女と結婚できたのだろうか。でも式の招待は来ていないしまだかもしれないな。永四郎は当たり前のように自分にも招待状がくると思っている。
あの日、あんなに大切なことを話した甲斐にどうして自分は海を眺めているだけだったのか。碌に返事も返さないで茫洋としている自分を思い出し永四郎は可笑しくなった。そもそも窓際の彼女と付き合い始めるときに何も言われなかったのが寂しかったのだ。とても簡単なことである。永四郎は、甲斐がおおよそ自分の思い通りになるものと思っていた。
彼の兄は父と同じく船に乗りたいらしいことを聞いたことがあるから、今頃甲斐くんは酒屋を継いでいるのかしら。アドレスも番号も変えていないが甲斐から連絡があったことは一度もない。そういう永四郎だって何もしていないのだが、なんとなく自分から連絡を取る気にはなれなかった。だってどうするの電話口から赤ん坊の泣き声とか聞こえてきたら。反応に困るよ。

などと考えて事をしていたら丸井に意地悪をされた。アッと声を上げると開いたそれに蓋をするように唇が降ってくる。乱暴に動く舌は分かりやすく不機嫌を伝えてきたので、永四郎は謝罪の気持ちを込めて丸井の身体に腕を回した。
揺さぶられながら瞼を降ろすと暗闇が広がる。たぷりと揺れる暗い海を思い出す余裕は今の永四郎にはなかったので、やわらかに血色が透ける暗闇の中ひたすらに声を上げていた。




(20130602)