キスとは黒糖の味がするものだという甲斐の言葉を聞きながら、それはどこからの情報なんだと木手は思った。ふむふむと頷いた知念が確かめてみようと口づけを迫る様子を遠目に眺めつつ彼はどこで黒糖を味わったのだろうと考える。あの時甲斐は眠っていたはずだ。
七つか八つの頃だ。今と比べれば豆粒くらいに小さい自分たちはいつものように片方の家で遊んでいた。その日は甲斐の母親が用事があるとのことで、木手の家で遊んでいた。母親が用意してくれたジュースと菓子を片手に子供向けのアニメをみたり、誕生日に木手が買ってもらったという昆虫図鑑を眺めたりして時間を潰していた。もうあと少しでクリスマスを迎えるような時期だったので、カーペットの上に寝転んだ二人はブランケットにくるまって図鑑を見ていた。
そのうちに、母親が夕食の支度を始めた。せっかくだから裕くんも食べていきなさいね、という声に元気よく返事をした甲斐は、隣で大声を張られたせいで耳を押さえている永四郎に、永四郎ママのご飯は美味しいから好きだと笑う。母の料理を褒められて悪い気はしない。気を良くした木手は、気の済むまで食べていけばいいと上機嫌に返した。
暖かい部屋。テレビから聞こえる適度な雑音。小気味よいリズムでまな板を叩く音。調味料の匂い。そんなものに包まれて眠るなという方が無茶な話だ。フ、と木手が目を覚ますと、開いたままの図鑑が顔の下にあった。すぐ隣では未だ甲斐が眠っている。半開きの口からは今にも涎が垂れそうだったので、図鑑につかないよう木手は甲斐の顔を掴んで仰向けに動かした。首が痛くならないように、頬を挟みこんでゆっくりと頭を動かしていく。途中小さく呻いたがそれきり起きることもなかった。
仰向けにした甲斐の口は薄く開いたままだった。最近ぐらついてきたという乳歯が覗き見える。口端がわずかにぬめっているのを見て、このままだとそのうち涎が垂れてしまうと思った木手は、しかし自分の服で拭うのは嫌だった。手近なタオル等もない。部屋の照明に反射してきらりと光った唾液の跡が目に入る。今考えれば、その程度放っておいても下まで垂れることはなかったはずだ。図鑑が汚れる心配もそもそも枕にしている時点であまり意味がない。それでもその時の木手は、甲斐の汚れた口元をどうにかしてやらなくちゃという使命感にも似た思いを持っていた。数年前に生まれた妹が最近大きくなってきて面倒を見ることが増えた影響もあるだろう。身内でもなんでもないくせに、自分が甲斐をちゃんと見てやらないといけないと思っていた。
そうして結局どうしたのかといえば、拭うものがないので自分の体を使ったのだった。舐めとってどうにかなるものでもあるまいに、控えめに舌を出して甲斐の口元を整えていた木手は、不意に昨夜見た映画を思い出した。何か悲しいことがあって泣いている女の頬を挟み、涙を唇で吸い取っていく男は最後にキスをしていた。女は目を閉じてされるがままだった。今の甲斐のように。
くるくると目をまわして木手を見る瞳は瞼に覆われている。半開きの唇から出る小さな呼気が顔に当たるのが少し気持ち悪かった。もうそれなりに綺麗になったのだしさっさと離せばよかったものを、木手はぼんやりとした気持ちで顔を近づけると甲斐の唇に触れた。ふにゃりと柔らかく、生温かい感触を唇から感じるだけでそれ以外になにもない。もちろん味なんてしない。顔を離した木手は、これのどこが面白いのかと真剣に考えてしまった。タラコと何が違うのだろうか。
その後、母親から夕飯ができたと呼ばれた木手は、甲斐を起こして食卓を共にした。何の因果かその日のおかずに焼きタラコがあった。箸で小さく分けてから口に運ぶ永四郎とは対照的に、丸ごとまぐまぐ頬張る甲斐の唇は小さな粒で汚れている。木手はもう甲斐の口元を整えてやろうとは思わなかった。
「永四郎は知っとるばぁ?」
急に声をかけられて、油断しきっていた木手は変にびくついてしまった。驚いた様子の知念にすみません、なんでもないですと言ってから何の話かと尋ねると、横から甲斐が口を挟んでくる。
「ちゅーの味さぁ」
「あぁ……まだその話してたんですか」
「裕次郎、黒糖味ってあびちゅーがゆくしやさ」
「俺がしたときはじゅんに黒糖みたいな味だったんばぁよ!」
どうやら甲斐とのキスは黒糖味ではなかったようで、胡乱気な目を向ける知念に甲斐が必死で言い募っている。
「というか、そもそもキミは誰としたんです? ほんとにしたんですか?」
「だーからしたってあびちょーみ!」
「誰と?」
「俺もさっきから聞いてるんやしが、そこはだんまりなんばぁよ」やっぱりゆくしなんさぁと言う知念に唸りながらも、誰としたかを言う気はないようで甲斐はじんまりとしている。木手としてはもはやどうでもいい話題であった。
「んじ、えーしろーはどうなん」
「何が」
「ちゅーってどんな味がするか知っとるかや?」
苦し紛れに話を逸らしたな……と思いながら、木手はしばし考え込む。味はしなかったが印象に残っているものならある。
「……タラコ?」
「あい?」
なによそれ、と聞き返してくる甲斐の口元は先の知念とのやりとりのせいか少しぬめっている。今の唇なら整えてやってもいいかなと思った。
くちづけなんてそんなもの
(20130815)
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