先月五つになったばかりの甲斐がびぃびぃと泣いているので、木手はカブトムシを掴んだままなんだなんだと傍に寄っていった。二人は虫取りに来ている。右手に虫取り網、左手に捕まえたてのカブトムシを持った木手がどうしたのかと近づくと、甲斐はびぃびぃ泣きながら振り返り濁音だかなんだかよくわからない声で木手の名前を呼んで、左手を目の前に掲げた。ソーセージよりも細い指にはクワガタがひっついていた。痛いのかと訊くと泣きながら首を横に振り、では痛くないのかと訊くと泣きながら首を横に振る。とにかく泣きながら木手の名前を呼び続けるので、木手は左手のカブトムシを甲斐の肩に置いて小さな指を懸命に挟んでいるクワガタをそっと剥がしてやった。指は赤く擦れてはいるものの大した傷ではなさそうだった。びぃびぃ泣いていた甲斐はえーしろーにふぇー! と両腕を上げた。その拍子に肩に乗っていたカブトムシが地面に落ちた。アッと声を上げてカブトムシを目で追った木手につられて下を見た甲斐は弾みで足を一歩下げた。汚れた運動靴の下に消えていくカブトムシを助けるには時間がなさ過ぎた。紙のこすらせた様な音の数秒後に甲斐が足を持ち上げると、先程までカブトムシだったものがバラバラと散っていたので木手はびぃびぃと泣いた。泣き出した木手に、よくわからないがとんでもないことをしてしまったのだということを感じ取った甲斐は木手を置き去りにして走って逃げた。




別々の小学校に通うということを知った甲斐は散々に文句を言い、木手も面白くないという顔をした。幼稚園が一緒だったのに何故小学校が違うのかと延々駄々を捏ねる甲斐に、その都度甲斐の母親はそういうもんなんだから仕方がないと雑な説明をした。どうして別々の学校なのかと尋ねてくる木手に、木手の母親は学区制度の説明から丁寧に話した。母親だけに飽き足らず木手にまで学校が違うのはなぜかということを尋ねてくる甲斐に、小学校には学区制度というものがあってねと説明していた木手だったが、そんなことを繰り返していよいよ明日から小学校一年生になるという日の夕刻、遊びに来ていた甲斐が帰る頃になって突然木手が泣きだした。それまで聞き分け良くしていたのに、裕くんと同じ学校に行きたいと泣き出した木手に甲斐の方まで泣き出して、木手家の玄関先で二人はわんわん泣いた。困り果てた木手の母親が甲斐の母親に連絡をして、迎えが来るまでの間、二人は今生の別れであるかのように涙を流していた。




中学二年の地区予選で敗北した夜、ホテルの部屋で甲斐は大泣きした。同室の木手が風呂から上がるとベッドの上でわぁわぁと甲斐が泣いていた。どうしたのと声を掛けた木手に、振り返った甲斐は濁音だかなんだかよくわからない声で木手の名前を呼んだ。呼ばれた木手がタオルで頭をかきながら隣に腰かけると鼻水を垂らしながら負けてしまったと甲斐が言った。今年の夏が終わってしまった、全国へ行けなかったとぐずぐず泣いている甲斐に、来年がありますと木手は言った。まだあと一年ある、来年こそ俺たちの時代を作るんです。力強い木手の声を聞いて安心したように頷いた、甲斐の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。大変な状態になっている顔面をタオルで拭いながらお風呂入ってきたらと木手は笑った。




なんとか高校を卒業できそうだという話の後に、子供が出来たと報告された木手は阿呆のように口を開けてしばらく固まった。「えーしろー?」我に返った木手が小さく頭を振る。なんて? と聞き返すと、子供が出来たと二度目の報告を受けた。再び固まってしまった永四郎に何を思ったのか、コンドームを切らしている時に一度くらいいいだろうとナマでやったら出来ちゃったと詳細を話しはじめた甲斐にやめろと手を振る。そんな生々しい話は聞きたくない。「……今何ヶ月なの」「えー、三ヶ月?」逆算するまでもない。今はもう三月なのだからいつやったかなんて明白だった。ホーリーナイトベイビーである。くそったれ、と木手は口の中で悪態をついた。
甲斐は大学に行かず実家の酒屋の手伝いをするのだという。父に倣い海に出ようかという話にもなったが、彼女と子供を置いて出るのはちょっとあれだということになったらしい。木手は向こうの大学に進むんだろうと言われたので頷いた。高校進学と共に上京した木手は、それでも年二回の長期休みには帰省していたのだが今年は受験勉強で一度も帰ることができなかった。無事志望校に合格したので改めての報告もかねて春休みに戻ってきたらこれだ。前回の帰省でも甲斐と会い話をしたが恋人がいるなんてまったく聞かなかったのに、一年で何が起こったのか木手には分からなかった。よもや変な女につかまったのではあるまいなとそれとなく探りを入れてみるも、悪いヤツじゃないなどと曖昧極まりないことをヘラヘラ笑いながら言うので、なんだか木手は腹が立ってきた。あんまり腹が立ったので目尻に涙が滲んでくる。眼鏡でなんとか隠せるそれをけして零すまいと気を遣いながら、木手はヘラヘラ笑っている甲斐に「おめでとうパパ」と言った。




報告を受けた時はなんとか堪える事が出来たが、甲斐の結婚披露宴でとうとう木手は泣いた。だいぶ泣いた。結構泣いた。タキシードを着た甲斐の隣にはウェディングドレスを纏った彼女がおり、二人の間には息子が座っていた。元来そういう性質なのかただ単に疲れたのかはわからないが、二つ三つの幼児にしては随分と大人しくしていた。
友人代表のスピーチで、来賓集うテーブルの合間を縫ってマイク前まで歩いてくる木手は背筋を伸ばして美しく歩いていた。マイクの前に立ち、位置を調整して斜め前の新郎新婦席の方を向く顔もいつもの永四郎だった。「甲斐裕次郎くんとは幼稚園に上がる前からの付き合いになります」紙は見ず、新郎新婦と来賓へ交互に顔を向けながら話し始めたスピーチの序盤以降、中盤に入るにつれて凛々しい声が震えだし雲行きが怪しくなっていく。中学時代の総てを掛けたテニスの話から木手は徐々に涙声になり、その後現在に至るまでの間で完全に泣いた。馬鹿で阿呆で何ごともその時の気分で決めるような彼ですが、僕にとっては一番の親友です。彼に支えられた部分をたくさんあります。彼が居たから僕は比嘉中テニス部の主将として最後まで立っていられたのだと思います。幼稚園に上がる前からですから二十年近くですか。二十年来の付き合いの彼が出会って二年そこらの彼女と子供をこさえてましてや結婚するなんて未だに信じられません。どうぞ奥さんとお子さんを大切にしてください。これからも仲良くしましょうね。お幸せに。木手永四郎より。
というようなスピーチを大泣きながらしたものだから一部には二人の関係を怪しむ者もいたそうだが、ともかく甲斐の結婚披露宴は無事に終わり、良く晴れた蒼天の下、花嫁が階段からブーケトスする様子を、木手は少し離れた場所でシャンパンを舐めながら眺めていた。




先月五つになったばかりの子どもに縞々のタンクトップを着せながら、木手は大声で甲斐の名前を呼んだ。「甲斐クン! 起きなさい! 朝ですよ!」タンクトップを整え、七分丈のズボンを履かせ終わった頃に隣の部屋からあくびをしながら甲斐がやってくる。パンツ一丁でやってきた甲斐はテーブルに用意してある朝食を見て顔を顰めた。目玉焼きとベーコンの隣に炒めたゴーヤが添えられている。テーブル中央のジューサーに入っている緑色の液体はゴーヤー汁かなにかなのだろうか。恐ろしい朝食から目を背けながらも自分の席に着いた甲斐は、着替えを終えて隣にやってきた我が子の頭を撫でて、向かいの席に着いた木手に「えーしろーやぁ」と顔を向ける。「ぬーんち朝からゴーヤーなんば? わんヤダ」「月水金はゴーヤーの日って決めたでしょう。今更何言ってんですか」「それはそうやしが……」めげずに文句を垂れる甲斐を、居候の分際で我が儘を言うなと一蹴して木手は両手を合わせた。子供もそれに倣い、いただきますをしてから少々覚束ない手つきで箸を持ちゴーヤーを摘まむ。木手による英才教育の賜物で息子はゴーヤーが大好きである。おいしそうに箸を進める子供を、ジューサーの中身を各々のグラスへ注ぎ分けながら木手は微笑ましく見つめ、甲斐は半ば絶望的な顔で眺めていた。

永遠の愛を誓った彼女は一年かそこらで他所に男を作り出て行ったのだという。都会に住みたいという彼女の希望で東京にやってきたというのに、妻に逃げられ若くしてコブ付きとなった甲斐はとうとう家賃が払えず家を追い出された。途方に暮れている甲斐に、ウチにくればと言ったのは木手だった。在宅の仕事だし、大人一人と子供くらいなら養える程度の収入はあるしという木手の言葉に甘えて転がり込んでから早半年。すっかり木手に懐いている息子に、ちびちびゴーヤーをつつきながら甲斐はため息をついた。行儀が悪いと怒られたので、つつくのはやめて皿の上で遊ばせる。上下左右を行ったり来たりするゴーヤーを見ながらため息をつく甲斐に、なんなの、と木手が眉を寄せた。「人の真向かいでため息つくのやめてくれる?」「うーん……」「言っときますけどため息ついたって駄目ですからね」「ゴーヤーのことじゃねーん」箸で弄ぶばかりで一向に口に運ぼうとしない様子を監視している木手に、そうではないのだと甲斐は言う。「わんよぉ……くぬまま一生えーしろーと過ごしたらどうしようって……」今はまだアイツも小さいからいいけどこれから先うん十年も男三人で暮らしていくのかと考えるとゲロ吐きそうになる、と言う甲斐に、お手製ゴーヤー汁を飲んでいた木手はだからなんだというような顔をした。「いいんですよ別に。無理にここで暮らす必要なんてないんですからね」甲斐がこの手の話題を出す度に、出ていきたいなら出ていけばいいと木手は再三言っていた。それでもなんだかんだと出ていかない甲斐と子供を無理に追い出すようなこともせず、木手は毎朝三人分の朝食を作り、洗濯をして、仕事をして、三人分の昼食を作り、仕事をして、三人分のおやつを用意して、昼寝をして、仕事をして、甲斐が風呂を沸かしている間に三人分の夕食を作り、順番に風呂に入り、三人並んで就寝している。シルバーアクセサリーを作ったり売ったりバイトをしたりしなかったり、フリーターだかニートだか分からないような甲斐が何の心配もなく毎日子どもと一緒に過ごすことが出来るのは、居候を受け入れてくれた木手に因る所が大きいという事を甲斐もちゃんとわかっている。「えーしろーは、ぬーでわったー追い出さないんば?」テーブルから少し離れたソファで眠っている我が子を見つめながら尋ねた甲斐に、幼馴染のよしみだと木手は言った。「大切な幼馴染が困ってるのに放っておけないでしょう」「ぬーやが歯の浮くようなセリフやし」「荷物まとめましょうか」「ごめんちゃいごめんちゃい!」慌てて顔の前で両手を合わせた甲斐に木手は声を上げて笑い、好きなだけいればいいよと言った。



愛し方と嘔吐
(20131017)