のぅ真田、と仁王が声を上げた時に、来たな、と真田は思った。「んな顔せんでもええじゃろ」向かいで頬杖をついていた仁王が、アー悲しい、と白々しく言う様子を真田は顔を顰めたまま見ていた。手の平で支えていた顎はずりずりと下がっていき、中途半端な腕枕をするような体勢で止まる。
「真田ぁ」
「なんだ」
「なんじゃろなー、なんだと思う?」
「……そういう冗談は好かん」
「イケズ」
「イケズではない」
部活の後、一人残って部誌を書こうと思ったのに、早々に着替えを終えた筈の仁王はいつまで経っても部室から出ていかなかった。ひとり、またひとりと皆が帰っていく中、仁王は掛けられる挨拶に手を振り返すばかりで携帯をいじっていた。いつもならさっさと着替えて帰る男が居残っているのは目につく。「仁王は帰らないのかい?」「待っとるヤツがおるけぇ。まだ帰らん」「へぇ」自分で尋ねたくせに興味のなさそうな声を返した幸村は、あんまり遅くならないように、真田もね、と言って部室を出ていった。丸井とジャッカルは駄菓子屋に、柳は赤也の勉強を見てやるのだと、それぞれ連れ立って帰っていく。柳生は、真田くんを困らせてはいけませんよ、と仁王に言い含めて帰った。
着替えをして、帰り支度を済ませて、そうして黙々と鉛筆を滑らせる真田を仁王はただ眺めている。隅の方に椅子を寄せて携帯をいじっていたかと思ったら、いつの間にか向かいに移動していた。携帯は持っていない。頬杖をついて、ただ眺めているだけだ。ちょっかいをかけてくるわけでも話しかけてくるでもない大人しい様子が真田には少し不気味だった。向かいに座っていることに気付いた時から、コイツのことだから何か邪魔をしてくるだろうと心得ていたのに、仁王はじんまりと鉛筆の行方を追っているだけである。大人しいならそれでいいが、やはりじっと見られているのは落ち着かないので、早く待ち人から連絡がくればいいのにと思っていた所だった。仁王が声を掛けてきたのは。「つめ」「つめ……?」「なんか綺麗」整ってる、と言いながら、仁王は枕にしていない方の腕を伸ばして真田の指に触れた。
「ヤスリとか使ってるんか」
「使うわけなかろう。普通の爪きりだ」
「ふぅん」
鉛筆に沿えている人差し指の爪を撫で、そのまま親指も同じように撫でる。爪を撫でられるというのは初めての経験だが中々妙な心地だった。何かが触れている圧力のようなものは感じるのだけれど、触覚というには程遠い不明瞭な感覚である。
「真田の爪好きじゃ」
「そうか」
もういいか? と尋ねると、駄目、と返された。
「部誌が書けないではないか」
「書かなきゃええじゃろ。大体終わっとるき」
「そういうわけにもいかん」
「そういうことにしとくもんぜよ」
ツツ……と仁王の指が爪から第一関節に上っていく。コリコリと関節部をいじった指は滑るように指の股へ向かうと皮膚の薄いそこをくすぐってきた。いい加減痺れを切らして手を振った真田は、改めて鉛筆を持ち直して書き残りに手を付けた。
「イケズ」
「イケズではないと言っている」
「お前さんはもうちと気ィ抜いてもええと思うんじゃけど」
「お前はもう少し真面目になった方がいいぞ」
「言いよる……」
机に寝そべった仁王は、真田め、と呟いて目を閉じた。「おい、寝るな」人を待っているんじゃないのかと訊いた真田に、もごもご口を動かしてまだいいのだと仁王が言う。
「あと十分ほどで部室を閉めるぞ。いいのか?」
「どうぞ」
「外で待つのか」
「もうすぐ終わるらしいから大丈夫じゃろ」
「ならいい。最近寒くなってきたからな、風邪などひいては大変だ」
それを聞いた仁王はパチリと目を開けて、眠たそうな声のまま自分を心配してくれるのかと尋ねた。「当たり前だ」「当たり前なんか」「? 当たり前だろう」仲間なのだから当然だという真田に、仁王はもごもごと口を動かした。何を言ったのかは聞こえなかった。
「あとどんくらい?」
「もうすぐだ」
「帰りピザまん奢っちゃるき」
「買い食いは駄目だぞ。それにお前は待っている相手がいるのだろう?」
ここまできてまだそんな事を大真面目に言うものだから、仁王は心底呆れた顔で「イケズめ」と呟いた。




20131115 つれないあの子とつれづれに