世界中が注目したグランプリファイナルは大盛況のうちに幕を閉じた。四方八方から祝福と賛美を、それからロシアのアイスタイガーより次回戦への強烈な宣戦布告を浴びた勇利は、昨年の恥を繰り返すまいと臨んだバンケットも無事乗り切ることができた。やおら勧められる酒を頑なに断りつつ、付き合いに差し支えない程度に注意深く量を調整した甲斐もあり、少々気分が良い程度である。積極的に食事を取っていたので酒の回りも早くない。代わりに眠たくなってしまって、一足先に部屋に戻ってきたのだった。挨拶周りは済ませているしどのみちそろそろお開きの頃合いである。先に戻ると手短に伝えたヴィクトルは勇利を引き留めようとしたが、それより早く人の隙間に紛れた勇利は柔らかいカーペットを踏み締め会場を後にしたのだった。
部屋に入るなり脱ぎ捨てたジャケットは床に落ちたままだった。いい加減拾ってやらないと皺になってしまうと考えるのだが、もはや無事では済まないだろうし、いっそこのままでいいのではないかとも思える。動くのが億劫で堪らぬ勇利は、ベッドの上でぼんやりと夜景を眺めていた。小さな女の子のように膝を崩しているのは意図的なものではない。ベッドに乗り上げようとしたら脛を引っかけ、そのまま倒れたらこんな座り方になってしまった。股関節が柔らかい勇利は、男児がこぞって不得手とするこの姿勢は昔から苦ではなかった。こうしていると自分が本当に幼いこどもになった様に思えてくるから不思議だ。こどもなら、何も考えなくて良い。健気にも拾われるのを待っているジャケットを見捨てたって、シャワーも浴びずに呆けていたって、明日のことを考えなくたって、咎める大人はいないのだ。
と思っていたのに何やら廊下が騒がしい。ドン、と扉に何かがぶつかったような音に次いでやかましい金属音が響く。そんなにドアノブを回さずとも、カードを差し込めばすぐ開くだろうに、向こう側ではドンドンガチャガチャ忙しない物音が続いている。「あれぇあかない、ユウリ〜俺だよぉ〜あけてぇ〜」「ヴィクトル、カードキー持ってないの?」「カード? あるある。勇利が持ってる」「じゃなくて君の」「うーん、わかんない」ユウリ、ユウリ、と大声を上げながら扉を叩くヴィクトルを諌めつつ、クリスは鍵を探しているようだった。ここまで騒いで出てこないので、勇利はもう夢の中だと思っているらしい。もちろん勇利は起きているし、すっかり我に返っていた。動かないのはひとえに怠惰ゆえである。
暫くの後「あるじゃないか!」と声を上げたクリスは、放り投げるようにヴィクトルを部屋に入れると、ベッドの上に座り込む勇利を見て大きな大きなため息をついた。
「……勇利、キミ、起きてるなら開けてくれよ」
「ごめんね。めんどくさくって」
「正直な子だね」
そこまで悪びれなく言われると怒る気にもならないと、肩を竦めてクリスは出て行った。
シーツに顔を埋めて唸る男は、数分そうしていたかと思うとゆらりと顔を上げた。眠そうな顔だった。「もう寝たら」言いながら勇利は、スラックスを脱がせるくらいはしてあげようと考えていた。どこに忘れてきたのかジャケットとネクタイは無い。
「No」ヴィクトルが唸る。喉を鳴らすように絞り出した声を聴いて、勇利はもう一度口を開いた。
「寝なよ、ヴィクトル。あなたとっても眠たそうだ」
「やだ…やだよ、まだ寝ない……」
顔を伏せたヴィクトルはシーツを握りしめながらうーうーと唸っていた。先ほどから唸り声しか聞いていない気がする。まるで子どものような駄々に少し笑って、勇利はベッドから降りた。
傍に立ってもヴィクトルは唸り続けていた。固く握られた左手をゆっくりとシーツから剥がしていく。取り払った腕を持ち上げ、そのまま仰向けにさせるとヴィクトルは不思議そうに勇利を見上げた。ヴィクトル・ニキフォロフのこんな間の抜けた顔なんてめったに見られるものではない。勇利は少しだけ笑い、ねじれた腰を持ち上げて完全に天井を向かせてからベルトに手をかけた。丁寧に金具からベルトを外して、チャックを下げて、尻を浮かせながらスラックスを抜き取ってやる。世界一モテる男の下半身を剥いているというのに気分はまるでおしめ替えだ。ついでにシャツも脱がせてやろうと、勇利がボタンに手をかけてもヴィクトルは静かだった。静かに息をして、勇利の顔をじっと見ていた。
上から順番にボタンを外していくと、滑らかな肌が浮かび上がってくる。人種の違う男の皮膚は勇利のそれとはなにかもが異なる。色も、肌触りも、その下に脈打つ柔らかい肉の付き方さえ違う。
とうとうすべてのボタンが外れたシャツを割り開き、現れた肉体は美しかった。呼吸に合わせて起伏する胸の中心から一直線に視線を下げると、彼の膨らみがボクサーパンツに身を包み存在を主張している。酒のせいか、些かしおらしく見えた。グランプリシリーズが始まってこそほとんど機会がなかったが、それ以前はほぼ毎日のようにむきだしのこれを見ていたのだ。もう二度と見ることもないのかと思うと何故だか妙にさみしい。
「するかい?」ヴィクトルが呟く。目線だけ持ち上げた勇利は、まだまだ柔らかいその場所をぺしりと叩いた。
「するかいって、そういう事したことないでしょ」
「俺はいいよ」
「僕はいやだ」
「あんなに見つめておいて」
「少しぼんやりしてただけ。ほらちゃんと脱いで」
シャツを引っ張り持ち上げれば、ヴィクトルも腕を動かして手伝ってくれた。これも脱ぎたいとゴムにかかる手を抓りながら勇利も自身の服を脱いでいく。今更シャワーを浴びる気にはならなかった。ベタつきや社交場の匂いを少々我慢してでも、今日はもう眠ろうと思った。明日のことは明日考えればいいのだ。
パジャマ代わりにしているジャージをもそもそ着込んだ勇利は、ずれた眼鏡を取り外してサイドテーブルに置いた。おやすみを言おうと顔を向けて、隣の男が未だ起きていることに気づいた。酒を飲んで服も脱いでベッドの上に寝そべっているというのに、ヴィクトルは勇利を見ていた。
「もう寝よう、ヴィクトル。僕ねむい。」
返事をしないヴィクトルは、じっと勇利を見つめている。たまに瞬きをする他はピクリとも動かない様は人形のようだ。勇利はこれまでの人生で彼以上に美しい人間を知らなかった。
その美しい人は細めた眼差しを勇利だけに向けている。常よりとろりと潤んだ瞳が部屋のライトに光っている。ヴィクトルが何を考えているのか勇利にはわからなかった。瞬きの速度が段々と遅くなっている。一度閉じてから再び持ち上がるまで、コンマ一秒程度だが時間がかかっている。早く寝ちゃえばいいのに。勇利は思い、そのまま口に出した。ヴィクトルの返事はノーだった。
「勇利、まだ、おわってないよ……」
「うん」
「俺はね、なっとくしてないからね……ぜんぜん、ダメだからね……」
「駄目なの?」
「ダメだよ……だめだ、だめ、ぜったい……ゆるさないよ…、……」
なんとも恐ろしい言葉まで口走り始めた男は、ほとんど眠っているようなものだった。必死で開けようと気張っている所為か眉間にはこれでもかと皺が寄っている。こんなに一生懸命な顔をして、ゆうり、と呼んでくる。それがあんまり拙い声であるものだから、最後の最後で要らぬことをしてしまったのだ。
「――ねぇ、もう少しそっちに詰めて」
「ん……?」
動いてくれない身体を無理やり押しのけ空いたスペースに腰を落とした勇利は、足元にたわんでいたシーツを引っ張り上げて、自分とヴィクトルに被せながら横たわった。マットレスの上で居心地のよい体勢を見つける間中、ヴィクトルは呆けたように口を開けていた。ひとつ息を吐いた勇利がそれを見て笑う。
「おやすみ、ヴィクトル」
くぁ、と一度あくびをして目を瞑った勇利であったが、二秒と経たない内に瞼は開かれた。なぜか。ヴィクトル・ニキフォロフに抱かれたからだ。
骨を折る勢いで抱きしめられて妙な声が出た。潰れた蛙の声なんぞ聴いたことがないが、きっと断末魔はこんな風なんだろうという声が口から出ていく。骨が傷んだのは数秒だった。実際は一瞬で抱きしめる力が抜けたのだが、じんじんと響く痺れは残る。折り曲げていた腕はちょうどヴィクトルの胸に添えられており、押し返すことも出来なくはない。しかしここまで近いとうまく力が入らないのでほとんど無意味なのだった。
勇利の目の前には固く出張った喉仏がある。ゆうり。とヴィクトルが呟くたびに喉が鳴り、骨が揺れて勇利の目の前で震える。引き攣るように動く小さな骨になんとなく触れてみたくなったが、どうしようか迷っている間にそれは離れてしまった。
ほんの少しだけ開いた距離は互いの表情を見るためだけに作られた空白だ。ヴィクトルは勇利を見ていたし、勇利もまたヴィクトルを見ていた。相手の瞳の中に自分を見るなんて経験をしたのはヴィクトルが初めてだ。そしてきっと最後になるのだろう。そうであれば良いと勇利は思った。
「……一緒に、寝ようかと思って」
最後に、とは言わなかった。言ってもよかったのだ。そもそも既にあんな話をしたのだから今更気を遣わなくてもよかったのに、勇利は言えなかった。昨日は目を見てちゃんと言えたお別れを、あんまり近くに居るものだから躊躇ってしまった。
一緒に寝ようと言った勇利をヴィクトルはじっと見つめていた。なんだか見られてばかりだ。人の視線で穴が開くなら今頃ボロボロに崩れているだろうと考える程には勇利には余裕があったが、ヴィクトルはどうだろう。動かないし、もしかしたら目を開けたまま眠っているのかもしれない。声をかけようと勇利が唇を開くと、そこから言葉が出るより早く左の頬が熱くなった。勇利のそれよりも少しばかり大きな手のひらを添えたヴィクトルは、米神を撫でるように髪を梳いた。二度、三度と繰り返される動きはゆるやかである。たまに目尻をこする親指は寝かしつけるようでもあったし、俺を見ろと言い聞かせているようでもあった。勇利は黙ってヴィクトルの好きにさせた。
暫くの後、それは耳の上で止まった。互いに見つめあう中で、口を開いたのはヴィクトルだった。
「愛しているよ、お前を」
ヴィクトルの声と共に、ごうごうと微かに聴こえる音がある。右耳を覆う温い手のひらがこの身を流れる血潮を教えてくれるのだ。
「サンクトペテルブルクの海よりも深く、愛していたよ、お前を」
「うん」
「……今日はとても良い日だ。こんなに良い日は、きっとこの先ないってくらい」
「そうかな」
「そうなんだよ」ヴィクトルの肩が揺れる。眦にシワができるほど目を細める彼が不思議で、教えてくれと勇利は未だ顔の上に置かれている手に頬をすり寄せた。ヴィクトルはまた笑った。
「だって勇利、こうしてお前が一緒に寝てくれるんだから」
こんなに幸せなことはないよ。そんな呟きを聞いて、それきり、勇利はヴィクトルの顔を見ることが出来なかった。布一枚さえ惜しいほど強く勇利を抱き締めたヴィクトルはそのまま眠ってしまった。
二人揃ってシャワーを浴びていないので、息を吸い込むと酒と脂と社交場の匂いがする。あまりいい匂いとは言えない中でスパイスのように混ざっているのはヴィクトルの体臭だった。最初の頃はハグをされる度にドキドキしていたけれど、八ヶ月を経た今では勇利にとってこれは当たり前のものだ。
ゆっくりと息を吐いて、数秒呼吸を止めてから、吐いた分より多く息を吸った。美しい男の匂いは鼻腔を通り喉奥をくすぐって勇利の身体を満たしていく。そうして頭のてっぺんから足のつま先までをヴィクトルで埋め尽くした後、勇利は少しだけ泣いた。
20170103
カフネ:ブラジル・ポルトガル語/名詞
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